「ガゼタ・ヴィボルチャ」 2022年5月27日 執筆者:Fabio Tonacci*
https://wyborcza.pl/7,179012,28508276,putinowska-edukacja-na-okupowanych-terenach-w-szkolach-kasuje.html
*「ラ・レプブリカ」(La Repubblica)からの転載記事
ウクライナの生徒たちから過去が奪われている。ロシアによって占領されたメリトポリで学校が再開されたが、ウクライナ史とウクライナ文学がカリキュラムから消えた。すでにそれらの科目は教えられておらず、それらのテーマにかかわる本を学校に持ち込むことは禁止されている。
「ウクライナがどのように成立したか、私たちに言語を与えてくれた詩人たちはどのような人たちか、ということをわれわれの子どもたちが知ることを、彼らは望んでいません」と、メリトポリ第4高等学校の校長アンジェリーナ・コワレンコは述べる。「理由ははっきりしています。知識が少なければ、それだけ容易にわれわれをコントロールし、操作できるからです。」
ロシア軍はまず彼女を連れ去り、2日間拘束した。釈放された後、校長は町から逃れた。日が経つにつれてロシアの占領に対する反発をますます強めている教師たちや、プーチン的な教育の導入に身震いしている保護者たちと、彼女はコンタクトをとっている。ロシアの大統領のイメージに従えば、ウクライナの「新人類」(Homo novus)は、1991年のウクライナの独立宣言について知っている必要はない。さらに、第2次世界大戦後に定められ、2014年のクリミア併合まで維持されていた国境線についても、ソ連とは本当はどのような国だったかについても、悲劇的なホロドモール――1930年代にモスクワが「ヨーロッパの穀物蔵」であったウクライナにもたらした大飢饉――についても、知る必要はないのである。
「新人類」は、ウクライナの詩聖タラス・シェフチェンコが書いた作品を読むべきではない。これらはすべて、あまりにも危険である。これまでの過去を消し去り、新たに過去を書き記すほうがよい。
学校は閉鎖され、そして再開された――まったく異なるカリキュラムのもとに
コワレンコ校長は58歳で、30年にわたって物理を教えてきた。彼女の学校は、メリトポリに21校ある中等教育を行なう公立校のうち最大規模の学校で、ギムナジウム(実科学校)とリツェウム(高等学校)を合わせて1,167名の生徒が在籍している。ただし、この数字は、ロシアの侵略以前のものである。過去15年間、コワレンコはこの学校の教員だった。
「この文章には、現在形を使ってください」とコワレンコは要請した。「私は今はキーウにいますが、まだこの学校の校長です。ロシア軍は、協力者を私の地位に据えましたが。」
5月2日、占領者はまず、学期の終了を発表した。しかし、5月半ばに、ロシアの軍政部は学校を再開することを決定した。
「彼らは、カリキュラムを最後まで教えることをわれわれに許可しましたが、ウクライナ史、世界史、文学は教えないという条件付きでした。そして現在、われわれの学校には20人の生徒しか通っておらず、授業はロシア語で行なわれています。」
この点については、メリトポリに残っている教員の1人から裏づけがとれた。ただし、彼女も、ロシア軍が町を占領してから、学校では教えていない。
「学校の入り口にはロシア連邦の国旗が掲げられています。」身分を明かさないという条件のもとで、彼女はこう証言する。「ロシア軍は、学校の入り口に、コサック親衛隊を配置しています。メリトポリの市内には、運営するスタッフのいる学校は3校しか残っていません。占領者には、代わりを見つけることがむずかしかったのです。そのため、現在では、警察官が校長になっている学校とか、物理の教師が数学と外国語を教えるような学校しか開いていません。」
教員の連れ去り
ロシア軍は、2月25日に、クリミアから戦車でこの町に乗り込んできた。第4高等学校の校長のケースは、ロシア軍がどのような教育的手段を用いているかを、よく示している。
「3月半ば、校長室に、ライフル銃をもった男が2人、現れました。彼らは私に、メリトポリはもはやウクライナの都市ではない、教育のカリキュラムは変更しなければならない、と言いました。私は呆然自失しました。その後まもなく、ロシア軍はザポリージャ州の教育局長イリーナ・シチェルバクを拘束しました。彼らは彼女をガレージに監禁して、長時間にわたって尋問しました。彼女は協力を拒否しました。その後、彼女がどうなったか、わかっていません。」
3月31日に、親ロシア派の新しい局長が、すべての校長と教員が参加する会議を召集した。これは結果的に失敗に終わった。校長や教員のほぼ全員が辞表を提出したからである。
「新しい局長は激怒して、復讐してやると誓いました…」とコワレンコは語る。その夜、兵士の一団が彼女の家のドアを打ち破った。
「そうなることは予想していました。彼らは協力しない教員を連行しました。私と合わせて4人がいっしょに捕まって、2日間、病院のガレージに閉じ込められました。そこには椅子が1脚しかありませんでした。与えられたのは、ティーバッグ2つとティーポット、賞味期限を過ぎたビスケットが少しだけです。隣の部屋では誰かが殴られていて、不運なその人の悲鳴を私たちは聞かされました。私たちは拷問を受けませんでしたが、新しい教育システムの妨害をしていると責められました。4月2日、彼らは私たちを目隠しして車に乗せて外に連れ出し、夜、携帯電話も水もない状態で、私たちを置き去りにしました。そこは町から30キロ離れた麦畑でした。」
彼女は歩いてメリトポリに戻り、1週間後にキーウに移動した。現在でも彼女はメリトポリの学校の校長であると自覚している。しかし、その彼女の学校では、彼女の国の過去は消されてしまった。
イタリア語からポーランド語への翻訳:バルトシュ・フレボヴィチ(Bartosz Hlebowicz)
※この記事を読むと、ロシアによるウクライナ侵略が、物理的な空間の占領と破壊だけでなく、プーチンの意向に沿った「新人類」の育成――教育をつうじてのウクライナの精神的・知的・文化的・言語的な遺産の破壊、ウクライナ史の抹消と書き変えによるロシア化――を目指すものであることがわかる。標的となっているのは、ウクライナの言語・文学・歴史である。
※プーチンの「新人類」育成政策は、19世紀にロシア帝国が行なった「公定ナショナリズム」政策を思い起こさせる。ロシアの帝室科学アカデミー総裁で文部大臣も務めたセルゲイ・ウヴァーロフ(1786~1855)は、〈正教・専制・国民性〉という3本柱の教育理論を唱導し、これが政府の文教政策の基本思想となった。この場合の「国民性」とは「ロシア帝国の臣民」であることを意味する。この路線は言語教育にも適用され、19世紀後半には、ウクライナ語は、ポーランド語によって汚されたロシア語方言と見なされて存在自体が否定され、学校でウクライナ語を教えることが禁止された。
現在ウクライナの占領地で行なわれつつある「プーチン式教育」もまた、軍政上の必要による一過性のものというよりも、プーチンの論文「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」で示された歪んだ歴史認識を基本思想とする文教政策の一環ではないだろうか。
※近現代のナショナリズムについては、1980年代以降、人文・社会科学の諸分野で、批判的な視点からの研究が積み重ねられてきた。歴史学も例外ではなく、19世紀以降のナショナル・ヒストリー(国民史・民族史)が抱える問題点が認識されるようになり、さまざまな角度から批判的な検討が加えられてきた。ナショナルな境界を越える歴史の研究や叙述はどのようになされるべきかが国際的に議論され、研究者によって実践もされてきた。
今回のロシアによる占領下の文教政策は、世界中の研究者が参加して何十年にもわたって行われてきた議論の積み重ねを、一気に力づくで突き崩す暴挙である。
※20世紀を代表する歴史家エリック・ホブズボーム(1917~2012)も、ナショナル・ヒストリー批判の一翼を担った1人であった。彼が1993/94 年次にブダペストの中部ヨーロッパ大学で行なった講義「歴史の内と外で」は、現在の状況のなかで読み返されるべき文章の1つではないだろうか。
「ケシがヘロイン中毒の原料であるように、歴史は国家主義的イデオロギーや民族主義的イデオロギーや原理主義的イデオロギーの材料になる。(…)昔の私は、歴史研究という職業は、たとえば原子物理学とは違って、少なくともなんの害も与えることがないと考えていた。ところがそうではなかった。私たちの研究は、IRA が化学肥料を爆薬に変えることを学んだ集団実習室と同じような爆弾工場になることが可能なのである。この事態のなかで、私たちがしなければならないことは二つある。私たちは歴史的事実一般にたいして責任を負わなければならない。また私たちは歴史を政治的イデオロギーのために悪用することを批判する責任を負わなければならないのである。」(『ホブズボーム 歴史論』(原剛訳)、ミネルヴァ書房、7~8頁)
【SatK】