バビ・ヤールで誰がユダヤ人を虐殺したのか

パヴェウ・スモレンスキ
「イタリア『ラ・レプブリカ』紙、ポーランドのウィキペディア、ロシアのトロールが同じ声で語っている」
「ガゼタ・ヴィボルチャ」 2022年5月11日

https://wyborcza.pl/alehistoria/7,162654,28434997,wloska-la-repubblica-polska-wikipedia-i-rosyjskie-trolle.html

「ガゼタ・ヴィボルチャ」の読者コメント欄では、モスクワによる侵略に批判的な記事が掲載されるたびに、反ウクライナ論者とロシアのトロール(ネット上の荒らし)が飛びかかってくる。「バビ・ヤール渓谷にユダヤ人たちを追いやったウクライナの警察と志願兵の部隊については、いつ記事にするんだ?」

* * *

私はすでにインクの大瓶を使い果たしたが、無駄な骨折りだった。ソ連とプーチンの支持者、物知りの自信家たちのプロパガンダが世界中から押し寄せてくる。この状況で、哀れなコオロギのような私に何ができようか。ウラジオストク、モスクワからミラノ、パリを経てニューヨークまで、偽りの語りが熱心に繰り返されているのだから。キーウ郊外のバビ・ヤールで、ドイツ人だけでなく、ウクライナ民族主義者がユダヤ人を殺したのだ、と。ワルシャワでも、こうした言い方が鐘のように鳴り響いている。打ち鳴らされる鐘の響きに対しては、コオロギの鳴き声は何の意味も持たない。それでもあきらめずに努力しなければならない。

バビ・ヤールの虐殺

1941年9月、ドイツ軍のキーウ侵攻後の数日間、大規模な爆発が町を揺るがし、ドイツ国防軍の数百人の兵士と将校が死亡した。攪乱活動の疑いをかけられたのがユダヤ人だった。

爆発の数日後、ユダヤ教のヨム・キプルの祭日に、ドイツ軍は、ユダヤ人に対して、お金と貴金属、暖かい衣服、毛皮をもって所定の場所に集まるよう命じた。この命令は強制移送を示唆するものだったが、どちらかといえば恐怖感なしに受けとめられた。ユダヤ人を含めてキーウの住民の多くは、ドイツ軍はスターリンのテロルからの解放者であると思い違いをしていたのである。ところが、彼らは百人ずつのグループに分けられて、バビ・ヤールに追いやられた。数日のあいだに、ナチスは、彼ら自身の計算によれば、34,000人のユダヤ人を銃殺した。

殺害は1943年まで続いた。バビ・ヤールは、何万もの人びとの屠殺場となった。ナチスが殺したのはとりわけユダヤ人だったが、ロマ、シンティ、ウクライナ人、共産主義者、捕虜となっていたソ連軍兵士、反ドイツ抵抗運動の参加者たち、ウクライナの地下民族運動の活動家たちも殺された(少なくともウクライナ蜂起軍(UPA)の1つの部隊が、ドンバスに至る地域で、ドイツ軍ならびにソ連側パルチザンと戦っている)。そこには、規模は小さいが強制収容所も存在し機能していた。

ソ連時代の反体制派でウクライナのユダヤ人社会のリーダーでもあるヨシフ・ジセルスは、私にこう語った。「ユダヤ人の持っていたお金や貴重品を数え上げた者のなかには、ウクライナ人がいたに違いない。しかし、ナチスの人殺しのなかにウクライナ人の部隊は1つも含まれていなかったのだ。」

バビ・ヤールにウクライナ人はいたのか?

ドイツ側に協力したウクライナ人部隊は、1941年秋のバビ・ヤールの虐殺に参加することはできなかった。なぜならば、そのような部隊はその当時はまだ存在しなかったか、あるいは、すでに存在していなかったからである。ヒトラーとスターリンが手を結んでいた戦争の初期の段階では、ドイツ国防軍にウクライナ人の2つの大隊、「サヨナキドリ」(Nachtigall)と「ローラント」(Roland)が参加していた。これら2大隊には、キーウまで到達するチャンスがなかった。1941年6月30日にリヴィウの広場でウクライナの独立宣言を行なった結果、ヤロスラウ・ステツコとステパン・バンデラの政府はゲシュタポによって逮捕され、ウクライナ民族主義者組織(OUN)の活動家数百名が弾圧された。このとき、ウクライナ人の2大隊はフランクフルト・アン・デア・オーデルに移動させられ、そこで編成替えが行なわれた。ウクライナ人兵士が第三帝国に叛旗をひるがえすのではないかとドイツ側は怖れたのである。

ドイツ側は、ベラルーシ人やロシア人の警察部隊と同じようなウクライナ人の警察大隊を組織したが、その編成に着手したのはようやく1942年2月であり、これはバビ・ヤールの虐殺のほぼ半年後である。ウクライナ蜂起軍も、第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』(SS Galizien)も、バビ・ヤールの虐殺の現場にはいなかった。前者は1942年の秋から冬にかけて成立したのであり、ウクライナ人の武装親衛隊員からなる後者が組織されたのは1943年春だったからである。

健全な感覚の持ち主であれば、一部のウクライナ人がホロコーストでどのような役割を演じたかを隠ぺいする者はいない。この問題について、たとえばリヴィウの歴史学者ヤロスラウ・フリツァク教授は、次のように書いている。「ドイツ人は、ユダヤ人の処刑を組織し実行するにあたって、ウクライナ人のいわゆる補助警察を利用した。ウクライナ人補助警察は、ウクライナの諸地域だけでなく、ポーランド、ベラルーシ、リトアニアのゲットーでも職務を遂行した。ウクライナ人警察官は強制収容所で看守となった。」しかし、彼は次のようにつけ加えている。ヤド・ヴァシェム〔ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の犠牲者達を追悼するためのイスラエルの国立記念館〕に集められた記録によれば、ウクライナ人のあいだに、オーストリア人は言うまでもなく、ポーランド人、リトアニア人、ラトヴィア人と比べても、より多くの反ユダヤ主義者がいたわけではない、と。

ルースキー・ミール(ロシアの世界/ロシアの平和)

ソ連では、バビ・ヤールの犯罪は沈黙によって隠された。このことは、国際社会主義がいかに巧みに反ユダヤ主義をとり込んだかを示している。しかし、ソ連ではキーウのユダヤ人の受難について語られなかったにもかかわらず、公的に黙殺されたこの殺害の監督をしたのはウクライナ人だったと強調されてきたのである。

プーチンはしたがって、何か新しいことを考え出したわけではない。このソ連治安機関の元中級役人は、スターリンとブレジネフの飲みこみの早い教え子なのだ。
「バビ・ヤールは、クレムリン的な「ルースキー・ミール」のとらえ方では、『我が闘争』や、第三帝国官房や、ヴァンゼー会議〔1942年1月20日、ヒトラー政権の高官がヨーロッパ・ユダヤ人の移送と殺害について討議した会議〕よりも重要なのです」と、戦争が始まる何か月も前に、ヨシフ・ジセルスは私に説明した。「プーチンは次のような連想のつらなりを作りたがっている――ウクライナはつねに悪そのものであったし、今でもそうだ。だから、ホロコーストもそれ以外の場所で始まったはずがない、と。彼は、ロシアではナチスの恐怖をかき立てることで国民の統一が打ち建てられると知っているのです。加えて彼は、ウクライナから西側の共感を奪い去りたかったのです。」

1つ目のアイディアは見事にきまった。2つ目のアイディアのほうは――プーチン・インターナショナルとそのポーランド支部、オルバン、ルペンの骨折りにもかかわらず、あまり成功していない。

イタリアの日刊紙からロシアのトロールまで

戦争は戦争である。しかし、バビ・ヤールについては、私たちはプーチンの言うとおりに相変わらず繰り返している。ウィキペディアは、バビ・ヤールの犯罪にウクライナ人ファシストの部隊が参加したと告発している。イタリアの日刊紙『ラ・レプブリカ』は、マウリツィオ・モリナーリ執筆の記事で、こう述べている。「1941年9月、ナチスとウクライナ人民族主義者によって、おぞましいユダヤ人の虐殺(バビ・ヤール)が起こった。48時間のあいだに34,000人ものユダヤ人が殺害され集団的に墓穴に投げ込まれた。」反ウクライナ論者とロシアのトロールについては、言うまでもない。彼らは「ガゼタ・ヴィボルチャ」にモスクワによる侵略に批判的な記事が掲載されるたびに、読者コメント欄で、クレムリンが命じるとおりに飛びかかってくる。「ヒトラーの強制収容所や絶滅収容所で看守として働いたウクライナ人部隊については、いつ記事にするんだ? それと、バビ・ヤール渓谷にユダヤ人たちを追いやったウクライナの警察と志願兵の部隊については?」

このように無知とプーチン的トロールの破廉恥が混ざり合うのである。かくして、嘘も3回繰り返されれば真実になる、というゲッベルスの格言が証明される日も近いであろう。

*パヴェウ・スモレンスキ(Paweł Smoleński)は作家、評論家、「ガゼタ・ヴィボルチャ」レポーター

バビ・ヤールは、キーウ市内に位置する渓谷である。ドイツ軍占領下の1941年9月、3万3千人を超えるユダヤ系市民がこの渓谷に連行され、殺害された。その後もこの地で殺害が続き、ユダヤ人以外に、ロマ、ウクライナ民族主義者組織のメンバー、共産主義者、捕虜となったソ連軍兵士、精神障碍者らが犠牲となった。

ソ連はユダヤ人虐殺の記憶を保存することを望まず、キーウの都市開発の一環として渓谷を埋め立てて公園や集合住宅を建てた。1961年、詩人エフゲニー・エフトゥシェンコは、詩「バビ・ヤール」を書き、ユダヤ人迫害に対するソ連の無関心を告発した。作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチはエフトゥシェンコの詩に感銘を受け、翌62年に交響曲第13番を作曲した。この作品は1962年12月18日、キリル・コンドラシン指揮で初演されたが、事前に当局のいやがらせが続き、バス独唱者が次々と交代し、指揮者のコンドラシンにも初演当日まで出演を辞退するように圧力が加えられた。

この記事で執筆者のスモレンスキが指摘しているのは、ウクライナ民族主義者組織(OUN)やウクライナ蜂起軍(UPA)の武装部隊や、ナチス親衛隊に組み込まれたウクライナ人師団(SS Galizien)は、1941年9月のバビ・ヤールにおけるユダヤ人虐殺に関与していない、ということである。ウクライナ人がドイツ側の補助警察の警察官としてユダヤ人の迫害に関与した点については、否定していないことに注意する必要がある。

日本語版ウィキペディアの項目「バビ・ヤール」では、虐殺へのウクライナ人の関与については、次のように書かれている。
「1941年9月29日から30日にかけて、ナチス・ドイツ親衛隊の特別部隊およびドイツからの部隊、地元の協力者、ウクライナ警察により、3万3771人のユダヤ人市民がこの谷に連行され、殺害された。」
「バビ・ヤール大虐殺の実行は、フリードリヒ・イェケルン総指揮の下、ブローベル率いるゾンダーコマンド4aがあたった。この部隊はSD(警護部隊)および治安警察(Sipo)、武装親衛隊の特別任務大隊第3中隊、そして警察第9大隊からの小隊から構成されていた。また警察第45大隊、第305大隊およびウクライナ警察の支援も受けていた。ベッサー少佐率いる警察第45大隊は、親衛隊の支援のもとユダヤ人の殺害にあたり、ウクライナ警察はユダヤ人をかき集め、峡谷へ向かわせる任にあたった。」
「目撃者の証言によれば、ユダヤ人たちは服を脱ぐように指示され、ウクライナ警察の誘導に従って、順番に手荷物、貴重品、コート、靴、上着、下着などをそれぞれ指定の場所に置かされた。抵抗すれば殴られ、最終的に10人ずつの集団でバビ・ヤール峡谷のへりに立たされ、銃殺された。」

【SatK】