「ガゼタ・ヴィボルチャ」 2022年4月15日
執筆:マリーナ・オフシャンニコワ Die Welt紙より転載
https://wyborcza.pl/7,179012,28342935,marina-owsiannikowa-przysluzylam-sie-rezimowi-putina-jest.html#S.tylko_na_wyborcza.pl-K.C-B.5-L.1.maly
ロシアのTV番組で反戦プロテストを行なって以来、彼女は、ロシア人からも、多くのウクライナ人からも、批判されている。ロシア第1チャンネルのプロデューサーとしてクレムリンの意向を伝えてきたオフシャンニコワが、自らの過去と行動の動機についての手記を『ディ・ヴェルト』紙上に公表した。
ロシア第1チャンネルの夜のニュース番組での象徴的な抗議のあと、職場の同僚たちは私に、どこかに身を潜めて、口には鍵をかけておいたほうがよいと助言しました。そうしなければ、命に危険がおよぶかもしれないからです。しかし、私はそうしませんでした。私は、世界中からの数十人の記者のインタビューに応じました。そして、SNS上で、戦争に反対する書き込みを続けて行ないました。
最初に抗議したその日から、私は批判されました。批判する人たちにとっては、私がじっさいに何をしているかは意味をもたないのです。両方向から、ロシア人もウクライナ人も、私を攻撃しています。もうだいたい、この状況には慣れました。ロシアでは私はイギリスのスパイだと言われ、ウクライナではロシアのスパイだと言われます。そう言いたい方々はどうぞご自由に。しかし、ロシアで最も重要なニュース番組であの抗議をしたあとで、今、私が沈黙していたら、なんで引っ込んだまま発言しないのだと人びとは言うでしょう。だから私は発言し、執筆しています。まだどこかでそんなことをやっているのか、と皆さんがびっくりするくらいに。西側の多くのメディアは、私の発言を載せることを原則として拒否しています――これは私の過去の経歴によるものです。
ロシアの独立系の記者たちが私を非難するのは理解できます
批判は、しばしばロシアの独立系の記者たちからのものです。私はこれは理解できます。彼らの多くは、長年にわたって、命を危険にさらしながら体制とたたかってきました。私はほんのひと月前に決断したにすぎません。私が確かに言えることは、次のことだけです。長いあいだ、つねに私は独立系の勇敢な記者たちの記事を読んでいましたし、彼らの仕事に驚嘆していました。彼らの文章が私の世界を見る眼をつくってくれたのです。これだけの年月がたって、私があのような行動をとる勇気を自分のなかに見いだすことができたのは、彼らが書いてきた記事のおかげでした。
長年にわたって、私はロシア国営放送第1チャンネルのために働いてきました。そして、クレムリンのためにロシアの攻撃的なプロパガンダを生みだすことに関与してきました。
それは、朝から晩まで、真実から注意をそらし、あらゆる道徳的な判断を洗い流すことを目指すプロパガンダです。私はこのシステムの歯車の1つに過ぎませんでしたが、このシステムが作動するように自分の持ち場で気を配りました。
私はこのプロパガンダを書いてはいません。が、それを書く人たちを助けてきました。私はそれで給料をもらい、そのおかげでずいぶん旅行もしましたし、世界の多くの国に知り合いもできました。
課題:アメリカで暮らすのはどんなにひどいことかを語れ
私の仕事の1つは、ロイターやAFPのような国際通信社の配信から適当な写真を選ぶことでした。アメリカやその他の西側諸国の堕落を示すような写真を、文脈から外して抜き出すのです。たとえば、ロシア人の子どもを外国人が養子にすることを禁止する法律が制定されたときには、私たちは、アメリカの親たちがいかにひどいかを物語る記事を探しました。
総じて、私たちの課題の1つは、アメリカや西側全体、あるいはウクライナでの暮らしがいかにひどいかを常に語り続けることにありました。これこそがクレムリン側のメディアの活動の原則だったのです。連中はみんな汚物にまみれている、ただロシアだけが常に洗い立てのシーツみたいに白くて心地よいのだ、ということです。
国際的に影響力のある雑誌でプーチンとロシアについてよいことを書いている記事をスキャンすることも、私の仕事でした。
国営メディアの仕事のなかでは、ロシアの抱えるいろいろな問題を提示することは、まったく重視されませんでした。どういう言葉だったら自由に使えるかについては、明確な指針がありました。最もよく知られている最近の例は、「戦争」の代わりに「特別軍事作戦」と言うように、というものです。
結局、私は自分が快適に暮らすために第1チャンネルで働いていたのです
かつて、チェチェンで最初の戦争になったとき、私は家族とともにグロズヌイから逃げなければなりませんでした。私たちは家財をそこに残してきたので、新しく生活を始めなければならなかったのです。それは困難な年月でした。しかし、そのときは、未来はもっとよくなるだろうという期待を私たちは抱いていました。
そのころ、私はジャーナリストになる勉強をしようと決めました。こういうと大げさに聞こえるかもしれませんが、私はジャーナリストとして仕事をすることで、より大きな正義を実現するためにたたかいたかったのです。1990年代末のロシアのメディアの状況は、今とはまったく異なるものでした。1999年に私がクラスノダールでTVの仕事を始めたときには、メディアは比較的自由で独立していました。そしてもちろん、未来はもっとよくなるという期待を当時の私たちはもっていました。2003年に第1チャンネルに移ったとき、すでに状況は少し悪くなっていました。しかし、ロシアのメディアが、今日私たちが知っているようなシニカルで攻撃的なマシーンに変貌するとは、当時のロシアでは誰も予想していなかったのです。
私の知人たちは私のリベラルな見解について知っていましたので、年がたつにつれて、私があいかわらず第1チャンネルで働き続けていることに、ますます意外の念を感じるようになっていました。しかし私は、常勤職の地位を捨てたくありませんでした。私は困難をへて離婚しており、2人の子どもと、障害をもつ母と、ローンの支払いが終わっていない家を抱えていました。加えて、仕事の時間の組み方が理想的だったのです。1週間働くと次の週は休みがもらえて、仕事も夕方だけの7~8時間です。それで子どものための時間がとれました。私は、どこかの工場に通っているような気持ちで自分の仕事をとらえるように努めました。目を閉ざし、太鼓をドンドンと鳴らして、家に帰ったのです。
クレムリンのメディア関係者は全員、ともに作っている網の目のような嘘を知っている。私もだ。
しかし、私は、スカイニュースやCNNを見ていましたし、『ガーディアン』『ニューヨーク・タイムズ』『ワシントン・ポスト』を読んでいました。ロシアのメディアでは『コメルサント』『ニェザヴィーシマヤ・ガゼータ(独立新聞)』『メドゥーサ』〔いずれも独立系のメディア〕。それに加えてウクライナのUNIAN、Strana.ua、kanały 1+1 、Inter. といったメディアをフォローしていました。私たちが作りあげている網の目のような嘘が、私にはきわめてはっきりと見えていたのです。
ロシアが、ウクライナ上空でマレーシア航空の旅客機MN-17が撃墜されたことを否定したとき〔2014年7月17日〕、私はショックをうけました。それでも私は仕事をやめませんでした。アレクセイ・ナワリヌイ――ロシアでただ一人真実を語り続けている人です――が毒を盛られたとき、私は震撼しました。それでも私は仕事を続けました。ロシアがウクライナに侵攻したあと、もう私にはこれ以上続けることはできませんでした。
ブチャの後、ロシア人全体が集団的責任を負うべきだと私は考えている
私は、反戦のプラカードを持って、モスクワ中心部にあるマネージュ広場に行きたいと思いました。17歳になる私の息子はそのとき、私を家に閉じ込め、車のキーをとり上げ、静かにしているように私に命じました。しかし私は眠ることができず、食事も喉をとおりませんでした。最終的に、私はそのプラカードを生放送中に掲げようと決心したのです。
ロシアの人びとを恥知らずなプロパガンダで欺くことに加担したことを、私は心の底から後悔しています。ウクライナと西側について虚偽のイメージを形成することに自分が加担したことも、自覚しています。現在、私たちの国のプロパガンダは、ウクライナ人全体を民族主義者のファシストとして見せようとするところまで来ています。ウクライナ人全体を根絶すべきだとか、この戦争に同意しないロシア人は全員投獄するか国外追放にするべきだ、というショッキングな主張さえ行なわれています。平和を主張する者は、いまのロシアでは裏切り者と呼ばれています。これは狂気です。全体主義的な狂気です。
そして、私自身もまた、そのことに加担してきたのです――そのことを私は恥じています。私はウクライナで、オデーサで生まれました。ウクライナに従姉弟たちもいるのです。それにもかかわらず、私はプロパガンダに加担してきました。従姉弟の1人は、ウクライナ西部のテオフィポリで教師をしています。最近、彼女と電話で話しました。彼女は「あなたはまともな人だ、あなたを支持している」と言ってくれました。そのことに私は感謝しています。
自分が行なってきたことを、私は消し去ることはできません。私にできる唯一のことは、私の力の及ぶかぎり、あのプロパガンダのマシーンを打ち壊し、この戦争を終わらせるためにできることはなんでもやってみることです。ほんの数人でもロシアの人をクレムリンのプロパガンダのかぎ爪から解き放つことができるなら、たった1人でもウクライナの子どもの命を救うことができるなら…
ブチャの虐殺の前には、私は、制裁はプーチンとその取り巻きだけに及ぶものであるべきで、ふつうのロシア市民を苦しめるべきではない、と語っていました。ブチャの後、私の見方は変わりました。厳しい制裁を導入するべきだと私は思います。ロシア人全員が集団的な責任を負うべきです。罪はロシア人ひとりひとりが負っています。
第二次世界大戦中の犯罪に対してドイツ人が許しを乞うたように、ロシアにいる私たち全員が、私たちの行なったことに対して何十年にもわたって赦しを乞わなければならないのです。
*マリーナ・オフシャンニコワは、ウクライナ人の父とロシア人の母のあいだに生まれた。3月14日まで、ロシア国営放送第1チャンネルでプロデューサーとして働いていた。この日に、彼女は、ロシアのウクライナ侵攻に反対する言葉を記した紙を掲げて放送中の画面に写り込んだ。このために拘束され、裁判所によって予備的に罰金を科された。さらに彼女には、「虚偽の情報」にかかわる法律に違反した罪で、最大15年までの懲役刑が科される可能性がある。
※ロシアの国営メディアで働いていた人物が内部の事情を語った貴重な証言であると考えて、手記の全文を翻訳した。ジャーナリズムが社会に対して負っている使命と責任について、考えさせられる文章である。
※第1チャンネルを解雇されたオフシャンニコワは、ドイツの日刊紙『ディ・ヴェルト』にフリーランスの記者として採用された。ロシア国家院(連邦議会下院)議長ヴォロージンは彼女を「裏切り者」と呼び、「あの女は、いまやNATO加盟国のために働くのだ。ウクライナのネオナチのための武器提供を正当化し、わが国の兵士たちと戦う外国人傭兵を送り込み、ロシアに対する制裁を擁護するのだろう」と怒りをあらわにしている。
https://www.kyotounivfreedom.com/ukraine_timeline/article/20220412_1/
※ウクライナでの戦争に批判的なロシアの作家グルホフスキーは、生放送中のニュース番組で反戦メッセージを掲げたオフシャンニコワの行動について、「勇気ある行動でした。でも、それは、嘘を流し続けた8年間に対する2秒間の抗議だったのです。そしてTV局の全職員が、今後は注意深く監視されることになるでしょう」とインタビューで語っている。
https://www.kyotounivfreedom.com/ukraine_timeline/interview/20220326_3/
今回の手記を読むと、オフシャンニコワ自身が「嘘を流し続けた8年間」について葛藤を抱え、ウクライナ戦争というとり返しのつかない結果をもたらしたことに責任を感じた末の行動が「2秒間の抗議」であったことがわかる。
【SatK】