リトアニア、ヴィリニュス、ロシア大使館前の池が血の色に

ウクライナでの虐殺に対する抗議の表現。ロンドン・オリンピック(2012年)100m平泳ぎの金メダリスト、ルータ・メイルティーテが血の色に染まった池で泳いだ。

「環境にとって安全な染料」を使ったそうです。

【SatK】

ブチャの集団暴行。「犠牲者のなかには12歳の少女もいる」と、医師は私にウクライナ語、ポーランド語、英語で繰り返した。

「ガゼタ・ヴィボルチャ」 2022年4月5日 執筆者:Natalia Waloch

ブチャでロシア兵は女性と子どもに暴行した。司直の捜査を妨げるために、彼らは犠牲者の身分証明書を破棄している。

ブチャとイルピンでは、大規模な集団暴行が起こった。性的な暴力にさらされたのは女性だけでなく、子どもたちも被害をうけた。こうした報道について、キーウの心臓外科医ナザール・オゼリャンスキーは、われわれにそのとおりであると認めた。彼は、ブチャとイルピンからキーウに運ばれた420人を受け入れている精神科医と直接コンタクトをとっている。「420人というのは、昨日の数字です。」私が電話したとき、彼は私に念を押した。「今日はすでにもっと増えている。ものすごく増えています。」

医師によると、すべての女性が暴行を受けている。
「犠牲者のなかには12歳の少女もいるのです」と彼は私に3回繰り返した――まずウクライナ語で、次いでポーランド語で(彼はむかしポーランドにいたことがあるので、われわれの言語を少し知っているのだ)、そして、私がよく理解するように、英語で。

現在、ブチャとイルピンのすべての犠牲者は、キーウで専門家、とりわけ心理学者の保護下におかれている。ウクライナの検察も現場で捜査している。彼らは、犯罪の証拠をできるかぎり完全なかたちで、できるかぎり迅速に、確保することを望んでいる。時間がたつと証拠の多くが消えてしまうことを彼らは知っているからだ。しかし、証拠固めは問題に直面している。「犠牲者たちのパスポートその他の身分証明書が破棄されているのです」とオゼリャンスキー医師は語った。

これはロシア人の意図的な行動だ、と彼は強調した。彼らが犠牲者から身分証明書を奪うのは、捜査機関による犠牲者の身元の特定を困難にするためだ。犠牲者から証言をとる過程で、身元の特定が不可欠だからだ。ロシア兵のこのような行動のモデルは、すべての場所で同様だった。

すべての場所で。ブチャとイルピンの犠牲者は一部にすぎない。「これで終わりではない」と心臓外科医は2度繰り返して強調した。まだまだ来るだろう、チェルニーヒウから、ボロディアンカから…、と彼は語った。

キーウの専門家と活動家のチームは、保護下にある420人について、EU諸国に避難させて、治療と心療を組み合わせたサポートが受けられる場所で受け入れてもらうことを望んでいる。現時点で、ポーランドですでに、自治体や、暴行の犠牲者の保護を専門に行なってきた非政府機関から、ブチャとイルピンの犠牲者に支援の手を差しのべたいという最初の声があがっている。

【SatK】

「焼かれた図書館、暴行されて死んだ女性たち、息絶えた子どもたち。ロシア人との平和はありえない」

マクシム・レヴァダ
「焼かれた図書館、暴行されて死んだ女性たち、息絶えた子どもたち。ロシア人との平和はありえない」
「ガゼタ・ヴィボルチャ」 2022年4月4日付
https://wyborcza.pl/magazyn/7,124059,28297963,spalili-muzeum-starozytnosci-ukrainy-muzeum-marii-primaczenko.html#S.main_topic_ua-K.C-B.1-L.2.duzy

彼らはウクライナ古代博物館、マリア・プリマチェンコ博物館*、オフティルカ、ハルキウの博物館を焼いた。なぜだ?

*マリア・プリマチェンコ(1908~97年)は、ウクライナの素朴派(naïve art)の芸術家。パリで彼女の展覧会をみたピカソは「芸術的奇跡のまえで脱帽する」と述べた。ウクライナの切手のデザインにも彼女の絵が採用されている。(訳者注)
ウクライナの切手のデザインにも彼女の絵が採用されている。

戦争が始まって32日目、チェルニーヒウ

キーウからチェルニーヒウへは車で1時間半で行ける。朝、出発して、チェルニーヒウでまる1日過ごして、夕方には家に戻れる。いつもそうしていた。ずいぶん以前から。

はじめてチェルニーヒウに行ったのは中学生の頃だ。1978年だった。私はそのころ学校の考古学サークルに属していて、夏にチェルニーヒウ州の発掘現場に出かけた。チェルニーヒウまでバスで行って、そこで数時間待って、目的地に向かう別のバスに乗り換えた。

私を含めてサークルの数名の少年たちは学校の許可をもらって、チェルニーヒウに向かった。メンバーの1人のおばあさんがこの町に住んでいた。おばあさんの住所を彼は知らなかったが、五角形広場という不思議な名前の広場に面して家があることを覚えていた。行ってみると、そういう名前の広場がほんとうにあった。広場から数本の通りが広がっていた。

古い庭のなかに感じのよい2階建ての家が並んでいた。通りは静かだった。街中ではなく、どこかの菜園(ダーチャ)にいるような感じがした。騒々しいキーウの都心で育った私にとっては、始まったばかりの旅に楽しいおまけがついているような気分だった。

おばあさんはひとりで住んでいた。彼女の頭のうえに降りかかる雪のように、騒々しい私たちの集団はおばあさんの家に押しかけた。もうお腹がぺこぺこなんです、と挨拶もそこそこに私たちは訴えた。若者は食欲をみせるとうまくいくものなのだ。この古い家でご馳走になったすばらしい昼食を、私はいまでも覚えている。私たちはバスに乗り遅れそうになり、運転手に怒られた。

その後も、すでに始まっている発掘に参加しながら、私たちは休日になるとチェルニーヒウに遠征した。サークルの顧問が現場の考古学者や博物館の知り合いと連絡をとってくれたおかげで、この遠征は、古い時代の都市の歴史についての真の意味での授業となった。

チェルニーヒウは、とても印象的だった。キーウでは、歴史的な遺産は、もっと新しい建造物のあいだに散らばっている。チェルニーヒウの中心部はまったく違っていて、ここでは、中世の物語の世界に入っていくことができるのだ。私たちを案内してくれたのはふつうのガイドではなく、「ほんものの学者たち」だった。彼らは、私たちに、つまり子どもたちに対して、自分の研究について詳しく話をしてくれた。何年たっても、チェルニーヒウに行けば、自分たちが歩き回った場所が私にはすぐわかる。通りを歩いていると、思いがけないときにむかしの思い出がよみがえってきて、子どものときに感じた匂いまで感じるほどそれが鮮やかなので、私は思わず立ち止まってしまうのだった。

キーウからチェルニーヒウへは車で1時間半ほどである。子ども時代の友だちのおばあさんが住んでいたあたりの家はすべて、砲撃で破壊されてしまった。この2週間、市内では暖房も電気も薬もなく、食糧の蓄えもなくなりつつある。いちばん深刻なのは、市内で飲料水が手に入らなくなっていることだ。キーウから近いのに、なにも運ぶことができず、町は周囲から切り離されている。知人たちがヴォランティアで食料と必要なものを届けようと何度か試みたが、うまくいかなかった。砲撃がやまないのだ。当然、負傷者がいる。

物資を届けようとするヴォランティアは、きわめて危険な状況におかれている。彼らは兵士ではなく、武器を持っておらず、身を守る術がない。ウクライナ中で、つねに危険にさらされているのだ――オフティルカで、イルピンで、ボヤルカで、マリウポリで、そしてチェルニーヒウで。彼らは救護に向かい、人びとを捜索し、運び出す。私の知人たちは、3日間イルピンに通って認知症のおばあさんを探した。彼女がどこにいるのか、よくわからなかった。やまない砲撃のもとで通い続けたが、見つけることはできなかった。

1時間半の距離なのに、すべてがないのだ。水、暖房、食糧。どれも私たちのところにあるし、運ぶ手段もある。しかし、町が封鎖されていて届けることができない。

私の友人のチェルニーヒウの博物館の館長は、博物館の地下室で暮らしている。脱出することもできたのだが、彼はそこにとどまった。毎日、無事に生きている、と知らせてくれる。そして毎日、自分の町のためにできることをやっている。町に残った人たちの誰もがやっているように。今日の彼の書き込みはこんな具合だ。「水がないって? 雨水が私たちの水さ。ひと晩で50リットルたまったぞ!」

歴史あるチェルニーヒウとはこういう町だ。英雄たちに栄光あれ!

戦争が始まって35日目

私の両親は子ども時代に戦争を体験した。ふたりとも疎開を経験した。私は、戦争については、話を聞かされたり、本で読んだり、映画を観たりして知っているだけだ。両親は常々こう言っていた。戦争がないのは、なんてよいことだろうか、と。私は、自分が平和のなかで生きる最初の世代になるのだと思っていた。残念ながら、そうはならなかった。いま、私も自分の戦争を体験している。つまり、「戦争なき世代」になろうと努力しうるのは、ようやくこの戦争が終わったあとに生まれた人たちだということだ。

私は子ども時代をソ連で過ごした。当時よく掲げられていたスローガンの1つは、「平和のためのたたかい」だった。学校で私たちは絶え間なくこのことについて聞かされた。5月9日〔=第二次世界大戦の戦勝記念日〕になると、担任の数学の先生が勲章をつけて学校に来て驚いたのを覚えている。どうしてかって? 私たちのような子どもには、戦争は、なにかとても遠いことのように思われていたからだ。私たちのエウゲーニヤ・イワノーワ先生が前線にいたことを、とつぜん私たちは知ることになった。私たちは、彼女が志願兵として戦争に行ったことを知った。彼女の夫ヨシフ・ルヴォーヴィチも数学者で、やはり前線に赴いた。彼らが戦争中に知り合ったのか、いっしょに戦争に行ったのか、それはわからない。彼らはそのことについては語らなかった。しかし、戦勝記念日に彼らが勲章をつけて現れたとき、私たちは思わず知らずに口をつぐんで、先生の言うことにちゃんと従おうといく気持ちになった。私たちは、戦勝記念日は先生たちの個人的な祝日で、彼らの気持ちは自分たちにはよくわからないように感じた。

この人たちは、私たちに、平和を大事にするように教えた。私の祖父は、戦勝記念日に、子どもの私を「栄誉公園」に連れていった。祖父はカーネーションの小さな花束を買い、私たちは大通りを無名戦士の墓まで歩いた。祖父は花を手向けて、無言で立っていた。私はとても幼かったので、祝日なら楽しいはずだし、遊びにでかけてアイスクリームを食べるべきだと思っていた。私は退屈して祖父の手を引っぱったが、彼は黙って立ったままで、だいぶ時間が過ぎてから、私を連れて家に帰った。夕方に、祖父の友人たちがやって来た。祖父と友人たちは食卓を囲んで夕食をたべ、互いの話がいつまでも途切れることなく続いた。この日は私は食卓につくことを許されず、祖母がキッチンで私に夕食をたべさせた。彼らは子どもに戦争の話を聞かせたくなかったのだと、いまの私にはわかる。

もう大学時代のことだが、学部の事務室の横に、戦争でたたかった大学教員たちを記念するショーケースがあったのを覚えている。それを眺めるのが私は好きだった。そこには、古い写真と並んで、戦争が終わってから撮られた写真も飾ってあった。それを見ていると不思議な感じがした。私たちの高齢の教授は格好のよい志願兵で、やはり年のいった女性の教授もたくさんの勲章をつけていた。銃後にいた者には、あれらの勲章は与えられなかったはずなのに…

ソ連邦で戦争を生き抜いた人びとにとって、「全世界での平和のためのたたかい」は空虚なことばではなかったのだと、私は思う。彼らは戦争を経験し、平和がなにを意味するかを理解していたのだ。

大学で助教授をしていた私の友人は、私たちへの攻撃が始まってすぐに領土防衛隊に入隊して、ずっと任務についている。何者かに促されたのではなく、自分で入隊したのだ。歴史学部の学部長をしていたもう一人の親しい知人も軍隊に志願した。彼は歴史学の学位をもつ教授である。あらゆる規則に照らして彼は軍隊に入らないでもよかったのだが、それでも入隊した。彼らがどうしてこのように行動したのか、私にはわかるように思う。生徒や学生たちが前線にいるときに、教師であることは困難なことだ。その教え子たちもまた自分の意志で志願しているときに。

最近、私は、ロシアの多くの大学教員、学長、学部長、講座の主任たちが戦争を支持している文章を読んだ。彼らのリストにくまなく目をとおした。しかし、そこに署名している人たちの誰ひとりとして、私の知るかぎりでは、前線に赴いてはいない。そして、今後も赴くことはないと私は確信している。若者たちや、彼らと同世代の学生たち、博士課程の大学院生たちの身体がどんなふうに戦場でぐにゃぐにゃに折れ曲がり、砲弾や地雷でばらばらになっているか、戦争を支持すると署名した教師たちのなかで想像してみた者がいるとは、私は思わない。

ソ連邦には、社会的順応主義とでも呼ぶべき、もうひとつの伝統が存在した。党と政府の政策には支持をおおやけに表明するのが義務となっていた。それをしなければ、だれも指導的な地位にとどまることはできなかったであろう。ソ連時代の学長や学部長は、共産党の政策と一致した行動をすることを義務づけられていたし、それだけでなく、疑わしい者や正統な路線から外れた分子は注意深く監視する必要があった。こうした仕事を果たしていれば、どんな状況であっても彼を脅かすものはなにもなかった。たとえ戦争が勃発しても、彼は遠く離れた場所で安全な銃後に身をおいていられたはずなのだ。権力は、従順で誠実で献身的な召使いをつねに必要としていて、彼らに支えられていた。とりわけ大学の教壇にたつ召使いは大事な支えだった。彼らこそが自分たちの同類を育てるからである。

焼かれた図書館と暴行された少女

昨夜、チェルニーヒウで、コロレンコ記念州立図書館が爆撃された。屋根が破られ、窓が割れ、壁が崩れた。1917年の革命まで、近代的様式の美しいこの宮殿は、士族銀行の建物だった。この銀行は、ペテルブルクの建築家アレクサンドル・フォン・ホーヘンの設計で1910~13年に建設された。フォン・ホーヘンは、ペテルブルクでスヴォーロフ博物館、マチルダ・クシェシンスカヤ邸をはじめとして数多くの建築を設計した人物である。

3月11日、チェルニーヒウで、州立青年図書館の建物が砲撃によって破壊された。この建物も歴史的な宮殿で、かつては文化の保護者で収集家でもあったヴァシーリ・タルノウスキーの所有だった。1897年にタルノウスキーはその無二のコレクションをチェルニーヒウ県に寄贈し、それ以来、ここにウクライナ古代博物館がおかれてきた。

キーウ近郊のイヴァンキウでは、「解放者たち」は、これを好機とマリア・プリマチェンコ博物館の建物に火を放った。プリマチェンコは、ウクライナで最も知られた民衆芸術の代表者である。2009年には彼女の生誕100年が祝われ、ユネスコがこの年をプリマチェンコ年と定めた。

オフティルカの博物館、ハルキウの美術館、マリウポリの劇場、ポポウ宮廷博物館、数十の教会の建物、バビ・ヤールやドロビツキー・ヤールのホロコーストの記念碑…

これらは軍事施設ではない。そこに大砲やミサイルが隠してあったわけではない。そんなものはどこにもなかった。写真をみれば、はっきりわかる。写っているのは粉々になったショーケースや陳列棚であり、散乱した本である。

偶然でこんなことになったのか?

「解放者たち」の軍隊の指揮官たちは、まだ戦争を始める前に、兵士たちからすべての携帯電話をとりあげた。彼らはあんなに家に電話したがっているのに! だから彼らは占領した地域の住民たちから電話を奪い、それを使って電話をかけた。そのとき、ロシアにかけた電話はすべてウクライナの携帯電話サービスによって登録され記録されていることに気がついている者はほとんどいなかった。これらの記録はすでにおびただしい数にのぼり、その多くがインターネットで公開されている。そこから見えてくるのは、次のような絵柄だ。

まず、兵士による略奪行為が大規模に起こっている。文字どおり、すべてを彼らは略奪している。解放者は妻にうれしげにこう報告する。お前には毛皮のコートをおみやげにもって帰るぞ、俺は車のタイヤ、テレビ、ノートパソコン、ステレオ・コンポを手に入れた、云々。わが国では小さな店舗でも警備用のカメラがついているので、こうした行為は映像による記録が残されている。彼らは酒やお菓子やソーセージを箱ごと運び出す。しばしば途中の道でソーセージをかじり、酒をラッパ飲みする。

次に、暴行がおびただしく行われている。これも電話で語られていることだ。戦車兵が3人で16歳の少女を捕まえて、数日間代わるがわる乱暴をした。多くがこのような話だ。しかも彼らは電話でそれを話すだけでなく、自慢しているのだ! イルピンの奪還後、ウクライナ軍の兵士たちは、捕えられていた女性たちを救い出した。そのなかには、たくさんの16、17歳の少女が含まれていた。彼女たちには心理学者のサポートが必要だ。少女たちは人を怖がり、自分の両親さえ怖れている。

キーウ州で「解放者」のひとりが父親を撃ち殺して、幼い息子が見ているまえで母親を何度も暴行した。しかし、わが国の特殊部隊がこの化け物を発見した。この男はもう誰も暴行することはない。同様のことはマリウポリでも起こった。女性は死亡し、子どもはことばを失って、ほとんど何にも反応しなくなった。

これがいま見えている絵柄だ――破壊された図書館と、暴行されて死んだ女性たちだ。だから、平和は、残念ながら、期待できない。いま起こっていることに対して、平和はありえない――同じ絵柄は、遅かれ早かれ繰り返されるだろう。

ポーランド語への翻訳:prof. Magdalena Mączyńska

マクシム・レヴァダは1964年生まれの考古学者。キーウ大学卒、東欧における古代ローマと諸民族の移動の時代の専門家、ウクライナ文化相ボフダン・ストゥープカの元顧問。チェルニーヒウ文化や、ウクライナの民族移動期の遺物について数多くの論文を書いている。いわゆる「黒い考古学」(非合法の考古学)についても詳しい。劇作家オレクサンドル・レヴァダ(1909~95)の孫であり、社会学者で長年にわたってモスクワのレヴァダ・センター(独立した非政府の世論調査・社会研究機関)の所長を務めるユーリ・レヴァダの従兄弟でもある。

少年時代の懐かしい思い出から文章が始まるが、読み進むにつれて筆致は険しさを増してゆき、最後は戦慄すべき現実に対する激しい告発で終わる。この戦争が、物理的にも、生命的にも、身体的にも、心理的にも、物質文化的にも、精神文化的にも、歴史的にも、将来的にも、とり返しのつかない破壊をもたらしていることがわかり、打ちのめされる。

レヴァダの知人の学者たちは軍隊に志願したという。「生徒や学生たちが前線にいるときに、教師であることは困難なことだ。その教え子たちもまた自分の意志で志願しているときに」という箇所は、訳していて、言葉がざくざくと自分に突き刺さってくる気がした。
ソ連時代の大学人についての辛辣な指摘――「権力は、従順で誠実で献身的な召使いをつねに必要としていて、彼らに支えられていた。とりわけ大学の教壇にたつ召使いは大事な支えだった。彼らこそが自分たちの同類を育てるからである」――は、時制は過去形になっているが、もちろん過去の話ではなく、私たちが読むときには、ロシアだけの話でもないであろう。

おそらく同様のことがウクライナの各地で、いろいろな分野で、起こっているのだと思う。
チェルニーヒウのオーケストラの首席指揮者も軍に入って「指揮棒の代わりに銃を持」ってチェルニーヒウの街を守っているという記事を、さきほど日本の新聞で読んだばかりだ。
「音楽にできることは? ウクライナに20年の日本人指揮者の思い」
『毎日新聞』 2022年4月5日付 【小国綾子/オピニオングループ】
https://mainichi.jp/articles/20220403/k00/00m/040/122000c
このインタビューで、チェルニヒウ・フィルハーモニー交響楽団常任指揮者、高谷光信さんは、だいじなことをたくさん語っている。

「もしもロシア人作曲家の作品全体を忌避するような動きが起きた時は、全力であらがおうと決めている。「僕はスラブ音楽を愛する音楽家として、戦争は憎むが、ロシア人は憎まない。両国とも平和になってほしい。これからもロシア作品を指揮していく。チャイコフスキーやラフマニノフを。ウクライナで学んだスラブ音楽の魂を日本に伝えるのが僕の役割だから」」

「高谷さんにとって、「スラブ音楽の魂」とは何なのか。そう問うと、高谷さんはしばらく考えた後、こう答えた。
「自由、だと思います。音楽は自由であらねばならない。楽譜から喜びや悲しみを見いだし、楽譜に書かれたものを自由に越えていく。音楽は自由に空を飛び、滝を落ち、大地を広がる。特にウクライナの音楽にはそれを感じます。苦難の歴史の中、何度も言葉を奪われた。長く国家の独立がかなわなかった。そんな土地だから人々には『我々は自由の民である』という強い信念がある。自由を希求する思いが音楽にも息づいているんです」」

【SatK】

ロシアのフェミニストの反戦活動――5,000本の十字架をたてる

「ジェチポスポリタ」 2022年4月4日
https://www.rp.pl/konflikty-zbrojne/art36008971-rosyjskie-feministki-w-antywojennej-akcji-stanie-5-tysiecy-krzyzy

どんな Z字も、ウクライナにおける悲劇とそこでの私たちの国の役割について真実を封じるべきではない――ロシアのグループ「フェミニスト反戦運動」(FAS)のメンバーが語る。
野蛮な侵略の犠牲者に捧げられた十字架がロシアの37都市にたてられた。

FASは、ロシアがウクライナに侵攻した日以降、ロシアと他の諸国で活動している。運動の目的はウクライナの戦争にかんする「情報封鎖を破ること」と真の情報を広めることだ。

FASには、フェミニストのグループ以外に、LGBT+の代表者たちも加わっている。テレグラムにチャンネルをもち、ウクライナで同様の活動をしているグループから、現地の出来事の情報だけでなく、人身売買の危険にさらされているウクライナ難民の状況についての情報も集めて共有している。

FASに集まったフェミニストたちは、クレムリンのいう「特別軍事作戦」の現実がいかなるものかを同国人に気づかせるための活動をロシア全土で展開している。

これまでに37都市で500本の十字架をたてた。はじめはマリウポリで爆撃された犠牲者のためのものだったが、ロシア兵の野蛮な行動についての情報が入ってくるにつれて、ウクライナの他の都市の人びとを悼む十字架が増えていく。

FASの活動家たちは語る。
「私たちは、全ロシアで5,000の十字架をたてることを象徴的な目標にしました。どんな Z字も、ウクライナにおける悲劇とそこでの私たちの国の役割について真実を封じるべきではありません。私たちは500本の十字架をたてました。すでに大きな数です。これからも続けていきます。」

【SatK】

ウクライナの激戦地から逃れた大学教員 ネクタイを着け続ける理由

『朝日新聞』 リビウ=金成隆一2022年4月4日
https://www.asahi.com/articles/ASQ4276J8Q30UHBI004.html

(以下、記事からの引用です)
ロシア軍の侵攻により、ウクライナ各地から避難民が押し寄せている西部の街リビウ。退避してきた人々が暮らすシェルター施設で、ネクタイをしている男性を見かけた。着の身着のままで脱出してきた人が多い中では珍しかった。

男性は、ロシア国境に近く、激しい攻撃を受けたウクライナ北東部スムイ出身の大学教員バリリ・パナシュクさん(62)。侵攻直後に友人宅の地下に逃れた。
(…)

チェルニウツィでは、好みの柄のネクタイを探しながら街を歩いた。大学教員として、いつも身につけていたものだが、慌てて退避したため手元になかった。

街中を歩き回って、質屋で中古品のネクタイ2本をやっと買うことができた。

なぜ、ネクタイを?

記者が問うと、しばらく考えてこう答えた。

「レジスタンス(抵抗)です。私の生き方、スタイルは、ロシア軍の侵攻で妨害されることはない。そんなことを私は認めませんから」

そして、こう続けた。

「戦時下は必要不可欠なもの以外はあきらめるべきだ、と言われがちです。第2次世界大戦でも似たようなことが言われたそうですし、今も多くの人がそうしている。装いを気にしなくなる。文化も同じで、必要最低限が満たされて初めて追加するものと見られやすい。でも、それらを捨ててしまうと、人間が生きる上で大切なものを失うことになる。ロシアはウクライナの文化面にも攻撃を加えているので、抵抗する必要があるのです」

ひとりひとりの生き方やスタイルを否定し破壊するのが戦争であるとすれば、戦時下に自分の生き方やスタイルを貫くことは、戦争への根底的な抵抗となるだろう。私自身はふだんネクタイをしないが、この方のネクタイには最大限の敬意を払いたい。

【SatK】

ウクライナ外相がブチャの虐殺でロシアを非難

「ジェチポスポリタ」 2020年4月3日付
https://www.rp.pl/konflikty-zbrojne/art36004031-minister-spraw-zagranicznych-ukrainy-oskarza-rosje-o-masakre-w-buczy

ウクライナの外相ドミトロ・クレーバは声明を発表し、国際刑事裁判所に対して、ロシアの戦争犯罪の証拠を集める目的でブチャを訪れるように求めた。
「われわれは、いまなお証拠を集め、死体を探しているところだが、すでにその数は数百体に達している。死体は通りに横たわっている。ロシア軍は、占領中と、撤退するさいに、市民を殺害したのだ。」
クレーバはロシアは「ISISより悪質だ」と述べ、次のようにつけ加えた。
「私は以前、犯罪者を司法の前に立たせるためにあらゆる努力を傾けると述べたが、いまやこの問題は私の生涯をかけた問題となったと確信している。罪を犯したすべての者に責任をとらせるまで、私自身が息絶える最後の瞬間までやり抜くであろう。」

【SatK】

やはりウクライナ南部の都市エネルホダルで、抗議する市民にロシア軍が発砲

やはりウクライナ南部の都市エネルホダルで、抗議する市民にロシア軍が発砲した。

キーウ州からのロシア軍の撤退の裏側で、南部を占領するロシア軍はむしろ市民への抑圧を強化しているのではないか。

【SatK】

ウクライナ南部、ヘルソン州の都市カホフカ、占領に抗議する市民にロシア軍が発砲

抗議活動が始まる前の状況を示す動画。ロシア軍が集結し、兵士が軍用車両の銃を市民のほうに向けて構えていることがわかる。

動画で聞こえる発砲音が、空に向けての威嚇射撃の音であったことを祈る。

【SatK】

ミサイル爆撃されて炎上するオデーサの石油貯蔵施設

【SatK】

ウクライナ「キエフ州全域を解放」 280人の遺体埋葬

【4月3日 AFP】ウクライナのハンナ・マリャル(Ganna Maliar)国防次官は2日、同国軍がキエフ州全域をロシア軍から奪還したと発表した。
(…)
ブチャに入ったAFPは、一つの道路で少なくとも20人の遺体を確認。うち1人は両手を縛られた状態で亡くなっていた。
ブチャ市長はAFPの電話取材に対し、街中には遺体が散乱しており、これまでに280人が集団墓地に埋葬されたと説明。「全員が後頭部を撃たれ殺されていた」とし、犠牲者には男性や女性、14歳の少年も含まれていたと語った。多くは武器を持っていないことを示す白い布を身に着けていたという。
https://www.afpbb.com/articles/-/3398497?pid=24378266
(記事に添付された写真のなかに見ると辛いものがあります。ご注意ください。)

後頭部を撃つやり方は、ソ連時代の集団虐殺でもみられた。
1940年4月にカチンの森でソビエト内務人民委員部(NKVD)によって殺害されて埋められたポーランド軍将校たちは、一様に後ろ手に縛られて後頭部から撃たれている。

【SatK】

「これがロシアの平和(русский мир)だ」――アントーノウ国際空港の現状

世界最大の飛行機 An-225 ムリーヤのパイロット、ドミトロー・アントーノウが、ロシア軍から奪還されたキエフ郊外のアントーノウ国際空港の現状を紹介する動画(英語を含む11か国語の字幕付き。日本語はありません)。破壊と略奪のあとが生々しい。

「ルースキー・ミール」(русский мир)は、「ロシアの世界」とも「ロシアの平和」とも訳すことができます。ロシア侵攻4日前、ロシア文学の沼野充義先生の嘆きのtweet。

【SatK】

君たちは失業することになる――服従しない芸術家と教員にロシア国家院議長が警告

「ガゼタ・ヴィボルチャ」 2022年4月1日付 執筆者:Wiktoria Bieliaszyn

国家機関で雇用された研究者と文化人で、ウクライナでの特別軍事作戦への反対を公言する者は解雇する、とロシア国家院議長ヴャチェスラフ・ヴォロージンが金曜日(4月1日)に警告した。「国家による援助を受けながら国家を裏切る者は、文化、教育、医療その他、国の財政で支えられている組織の地位を辞任するべきだ。」
ヴォロージンはさらに、当局は各大臣に所轄の諸組織の「査察」を要請すると述べた。
国家院議長は、ロシア国内で「われわれの兵士を支援している芸術家」以外に「暖かい楽園に逃れて時が過ぎるのを待っている」連中がいる、と指摘した。

独立派のコメンテーターによると、ヴォロージンのこの警告は、オペラ歌手のアンナ・ネトレプコの発言に対する反応だという。ネトレプコは、水曜日(3月30日)にフェイスブックで、ウクライナにおける戦争への批判を公表した*。

*「私はウクライナでの戦争を明確に非難します。私はこの戦争の犠牲者とその家族に心を寄せています。私の立場ははっきりしています。私はいかなる政党のメンバーでもなく、ロシアのいかなる指導者とも関係していません。私の過去の言動は誤解されていて、そのことを残念に思います。私はこれまでの生涯でプーチン大統領には数回しか会ったことありません。いちばん目立つ機会は、私の芸術に対して与えられた賞の授賞式〔2005年に2004年度ロシア国家賞を受賞〕と、オリンピックの開会式〔2014年、ソチオリンピックの開会式でオリンピック賛歌を独唱〕でした。それ以外には私はロシア政府からいかなる財政的な支援も受けておらず、オーストリアで生活し納税もしています。私は故国としてのロシアを愛しており、私の芸術をとおしてただ平和と和合を手にしたいと願っています。予告していたお休みをいただいたのちに、5月末にヨーロッパで活動を再開する予定です。」

ネトレプコの発言の翌日(3月31日)、ロシアのオペラ界の指導部がネトレプコを批判する声明を発表した。「昨日、この歌手は、わが国の行動を非難した。ヨーロッパで生活し、ヨーロッパの舞台に出演するほうが、祖国の運命よりも、彼女にとっては重要だということがあきらかとなった。」
そして、その翌日(4月1日)に、国家院議長ヴォロージンがネトレプコを裏切り者と呼んだのである。

しかし、ヴォロージンの警告は、ネトレプコだけを念頭においたものではない。
日刊紙「コメルサント」編集部によれば、ロシア内務省は、自由主義的な価値観で知られるモスクワ社会科学・経済学高等学院に対して、講師の一部についての記録の提出を求めている。これは、10名の研究者と社会活動家をあぶり出すことを意図したもので、そのなかには政治学者Jekaterina Szulman、社会学者Grigorij Judina、 評論家Konstanty Gaaze、歴史学者Ilja Budraiskisが含まれている。彼らはいずれもロシア当局を鋭く批判していることで知られる。内務省は、これらの研究者の雇用状況を調査し、学院での勤務による所得を確認することを目指している。
当局は市民による密告も奨励している。すでに、授業でウクライナでの戦争を批判した教師に対して、検察による取り調べが行なわれている。

55歳の教師 Irena Gien は、生徒たちにこう語った。
「ロシアが文明国として行動しないかぎり、制裁が永遠に続くことでしょう。私たちの国は屑であり、北朝鮮と変わりありません。」
彼女は、生徒たちがこの発言を録音していることを知らなかった。生徒たちはこの録音にもとづいて当局に密告した。教師は「ロシア軍の活動にかんする虚偽の情報の拡散」により最大10年の懲役を科される可能性がある。

【SatK】

今日からロシア軍は占領地の学校でウクライナ語を禁止する

「ガゼタ・ヴィボルチャ」2022年4月1日付*
*イタリアの日刊紙「ラ・レップブリカ」(執筆:Corrado Zunino)よりの転載記事
https://wyborcza.pl/7,179012,28289787,rosjanie-na-zajetych-terenach-od-dzis-zakazuja-jezyka-ukrainskiego.html

メリトポリで、ロシア軍は、市長を排除して、親モスクワ派の彼のライヴァルを代わりに据えた。ロシア化がすでに学校の教室で始まっている。「彼らは、私たちの歴史を教える教師と本を標的にしました。彼らは、私たちが自分たちと違うことに対して復讐しているのです。」

* * *

30歳のギェニャは、生まれて2日目の子どもに授乳していた。彼女のまなざしには暖かさがなかったが、これは子どものせいではない。「北へ、バシュタンカへ、どうにかこうにか逃げてきた。」この「北へ」はおおざっぱな方角で、ミコライウからは60 kmほどの距離である。「あっちはものすごい戦闘が続いていて、毎日毎日、ロシア軍がもう市内にいるような感じ」と彼女は言う。

「息子は今にも生まれそうで、家でも、通りでも、人道回廊を走るバスのなかでも、どこで生まれてもおかしくなかった。毎日毎日、爆撃のさなかでも。」

「息子がロシアで育つのはがまんできないから、それだけはぜったいないってわかれば、私にはそれで十分。私の町が生き残るのかどうかわからないけど、私はウクライナの外で暮らすことはない。息子も私といっしょにね。」

ギェニャの家族はみな無事だが、たくさんの友人が亡くなった。

ロシアの軍靴のもとで生きる恐怖

戦闘が行なわれていたり、侵略者が占領した地域の住民はロシア軍をよく知っており、なにが待ち受けているかもわかっている。兵士たちがどのような連中か、彼らといっしょに町に入ってくる「ロシア文化」とはいかなるものかについても。

南方の、黒海とアゾフ海という2つの海沿いの都市部ではもっと早く、2014年に、人びとはそれがどのようなものかを知ることになった。ロシア軍の軍靴のもとで生きる恐怖と、侵略者に対する憎しみと。

侵攻開始から1週間でロシア軍によって(大きな都市としては唯一)占領されたヘルソンでは、人びとが毎日デモをするために街に出ている。彼らは一貫して、自分たちの市長を返せ、街を返せ、旗を返せ、と要求している。水曜日(3月30日)の朝、地元の正教会は、聖職者セルヒー・フディノーヴィチが連れ去られたと公表した。ウクライナ政府は、この地方全体ですでに90,000人のウクライナ人がロシアに移送されたと発表している。連れ去られた人びとのなかには、ロシア人やモルドヴァ人も含まれている。

高まるロシア人のフラストレーション

ミコライウでは、移動式の火砲による銃撃が絶え間なく続いている。占領されたヘルソンとまだ自由なミコライウのあいだに位置する地域でも、人びとはすでにロシア軍とはどういうものか体験していた。1週間前、戦車の残骸を木々のあいだに残して侵略者が退却したことを人びとは喜んでいる。

「彼らは家に入ってきて、水をくれと言ったんだ。こっちに配るものなんか彼らは何も持ってなかった。彼らもこんないくさはまっぴらなんだ」とマリウコ村の老人たちは私に話してくれた。

しかし、もっとひどいことになったところもある。侵略へのウクライナ人の抵抗、予想を超えて長く続く防衛戦のなかで自分たちよりも強力な軍隊に対してウクライナ人がもたらす損失、こうしたことが原因となって――なんら正当化できるものではないが――侵略者のフラストレーションは高まり、行動は容赦ないものになった。

しかし、問題はそれ以上のものだ。メリトポリでは、ロシア軍が市長のイヴァン・フェドロウの頭に袋をかぶせて連れ去り、都市は陥落した。メリトポリの住民アンナ・ヴィノコロワはこう語る。
「どこかを占領してロシア軍が最初にやることは、学校にあるウクライナ的なものをすべて根絶することです。」
「彼らは、私たちが子どもたちに愛国心を教えたことに対して復讐しているのです。学校や幼稚園の教師を探し出して、銃撃さえしています。彼らはウクライナ語で教えることを禁止しました。ウクライナ語、ウクライナ文学、ウクライナ史のような科目を教えることを禁止したのです。新たに占領した場所ではどこでも、お隣のザポリージャでも、キーウやウガンスクでも、こうしたことが起こっています。プーチンがいちばん気にかけていることが、ここからわかります。私たちについて彼が考えているとおりに私たちに考えさせること、つまり、ウクライナ国民など存在しないと私たち自身が考えるように強制しているのです。

4月1日から学校ではロシア語しか使えない

「ロシア化」がいたるところで語られている。メリトポリの新市長ガリーナ・ダニルチェンコは、昔からの政治的ライヴァルであったフェドロウに代えてロシア軍が市長の椅子に据えた人物だが、黒い目だし帽をかぶった武装した男たちに囲まれて来客を迎え入れた。

確信をもって彼女は言う。「私たちとロシア人のあいだにいかなる違いもありません。私たちは同じ1つの民族です。近いうちに行政上の観点からも何ら違いがなくなることを望んでいます。ロシアの一部になることを望んでいるのです。」

本来の正当な市長は、ロシア軍が頭に袋をかぶせて拉致し、捕虜を交換するなかに入れられてゼレンシキー大統領に返された。このようなやり口を彼は日々非難し続けている。フェイスブックで彼はこう書いている。「彼らは教育課長イリーナ・シチェルバクを逮捕した。彼女は消息不明である。彼女が資産と金を盗んだと彼らは告発しているが、たんに協力を拒んだという理由でロシアの占領者が人びとを拘束していることはみんな知っている。学校でウクライナの子どもたちは彼らの人質になっている。4月1日からロシア語でのみ教えられることになる。」

街で喧嘩に「ここはずっとロシアだったんだ」

高齢の婦人ルドミワは、3週間隠れたのちに、メリトポリの避難場所から姿をあらわした。外国人の顔を見ると声をあげる。「パンよ、パン、パンをちょうだい!」さらに「ヨーロッパよ、パンをよこしなさい、私たちが生きのびることができるように」
そのあとで彼女は支援物資を受けとりに行く。受け渡し場所には、今日はプーチンの政党「統一ロシア」の旗が翻っている。

メリトポリ州では、今月支給されるべき年金9千万フリヴナのうち、8百万フリヴナしか支払われていない。

市庁舎前の広場で、中年の女性ナターリアはこう言う。「私はソ連で生まれたし、私の父はウラジオストク出身だけど、私はいまはウクライナ人だし、このテロリストたちがいなくなってほしい。」そう言って彼女はパトロール中のロシア軍兵士を指さした。

傍らを通り過ぎた男性が彼女をこう咎めた。「これは占領じゃなくて統一だぞ。われわれはずっとロシア人だったし、ロシア語がわれわれの言語だ。ここで起こってることはみんな、われわれが母国に戻れるようにするためなんだ。」

議論は通りがかりの人たちを巻きこんで言い争いになり、最後は武装したロシア兵が介入した。たとえ戦争が終わっても、ここでは和解はまだ遠い先のことだろう。そして、その状況をロシア人たちは利用するだろう。

ポーランド語への翻訳:Bartosz Hlebowicz

ロシア軍は、一方で、占領地の住民を身体ごと物理的に排除したり、別人と入れ替えたり、胃袋を人質にとったりする。マリウポリの市長は拉致されてロシアに忠実な別の人物におき換えられ、住民は包囲して飢えさせたうえでパンを配ってひざまずかせる。他方で、ロシア軍は、占領地の子どもたちの頭のなかを入れ替えることにも注意を払う。学校でウクライナ語を禁じてロシア語だけを使わせ、ウクライナの文学や歴史は教えずに、君たちはロシアと一体なのだと教える。言語、文学、歴史。「人はパンのみに生きるにあらず」ということを、プーチンはよく知っているのだ。占領下の学校で学んだ子どもたちが大人になるころ、はたしてこの町に和解は訪れているのだろうか…

【SatK】