いただいたメッセージ

「京大文化、京都文化を守ろう!立て看禁止は、権力独裁化の一環であり、民主主義破壊行為の一環だと思う! 」(秋本勝)

「立て看は、京大の文化であり、自由の象徴であり、社会に開かれた窓でもあります。それを権力が縛るという野卑なことは絶対に許してはいけません。万が一権力の横暴を許したら、京大は死んだも同然です。何故なら、自由こそが京大の”” Raison d’etre”” だからです。京大のOBとして、現役の京大生の親として、強くそう思います。」
(芦刈成人)

「立て看は自由の校風の看板。京大は社会の木鐸。」(安部浩)

「大学運営側が学生や教職員との対話に臨み、共により良い大学環境を創り出す努力をしてくれることを切に望みます。我々学生や、教員、職員の方々は単なる大学の管理対象ではありません。大学の中で生き、大学という環境を共に創り上げ、そこに理想を体現するための同志です。そのことを認め、大学運営側による上意下達の意思決定ではなく、広く当事者を招いた対話の場を設けることを強く求めたいと思います。」(新川広樹)

「立て看の撤去は、京大の「自由の気風」に反するもので憤りを感じております。」(井出晃憲)

「しかし、毎年の運営費も削減され、21世紀にふさわしいものとして人類共同体との関係を視野において自由を捉えるべきであるという意見もあり、 かつ内閣官房からも、官僚には多々忖度を求められるという世情も鑑み、伝統ある自由の学風を「責任と調和ある自由」など代案として考えたい。今後京都大学はノーベル賞よりも地域との調和を優先して求める方針です。どうもお金と、忖度には弱いんです。」(伊藤敏)

「新しい価値は、従来の価値感に何らかの「矛盾」を感じる事からスタートする。京大の学生活動、研究活動でもしかり。まずは、矛盾感に矛盾感としてのストレートな表現をゆるすこと、そのためには多少乱暴な表現法も許さなくては息がつまってしまう。こんなことは従来の京都大学では当たり前のことであった。外観きれい、歩道を急いでいるのは大人しい羊のむれ、こんなので良いわけはないでしょう。」(伊原康隆)

「京大も画一化していく大学になっていくのかなあ、残念です。タテカンは京都の長い歴史の中で近代の文化のひとつになっています。総長は確かこの大学で文化・美術面を育てていきたいとおっしゃってましたね。
後で振り返って京都市&京大はこの文化を切り捨て並みの都市を目指した、という汚点を残すんではないですか。安全が心配ならそれを担保するなど配慮しつつ、せめて対話の場を設けて市民~大学~京都市間ですっきりさせてはどうでしょうか?(一京都市民)」(太田豊治)

「抗議はいいのですが、なぜ宛先が総長なのですか?プロボスト制で権限が剥奪されている総長を宛先にするのは、この制度で権限を体良く奪った天下り官僚や財界の思う壺なのではないですか?」(梶丸岳)

「安全面など配慮すべき点はあるとは思いますが、これまで立て看板も含めて景観をなしていたと思います。」
(木村雅美)

「立て看は風景だ。」(木村大治)

「皮肉なことに、今回の件を通して、京大の立て看板の文化的価値が再確認・再評価されたと思います。」
(金賢得)

「昔、石垣カフェというものがありました。百万遍の石垣が撤去されることに抗議するため、石垣を占拠し、対話の場として設けられたのが「石垣カフェ」です。なぜ石垣の撤去に抗議したのか。それは、石垣が立て看の設置場所として利用されていたからです。結果、石垣は守られました。しかし立て看が撤去されたのでは意味がありません。立て看強制撤去に反対します。」(倉津拓也)

「大学の知的営みは、閉じられたものでなく、社会に開かれることによって、相互に刺戟を与えあうものです。景観条例を盾に立て看板を禁止し、あろうことか撤去するとは姑息としかいいようがありません。卒業生としてたいへん残念です。京大当局の決定の取り消しを強く求めます。」(国重裕)

「今回の立看板規程をめぐる一連の経緯は、トップダウン方式による大学運営の欠点と限界をよく示していると思います。立看板は、公認・非公認のサークルや活動にかかわる学生たち、教職員、さらには大学の周辺地域の市民など、多様な立場の人びとが長年にわたって共有してきたメディアです。そのような共有財産に対して、大学本部のひと握りの人間が、広く意見を募ることもなく一方的に規程を制定し、それを強制的に押しつけたことから、大学の内外で摩擦と対立が生じているのです。あらためて大学の基本理念に立ち返って、対話と議論の場を設けるべきではないでしょうか。」(小山哲)

「立て看板に憧れて、京大に入ったOBです。貴会の趣旨に賛同します。」(才治拓真)

「学生サークルや寮の問題を扱う全学の学生生活委員会で,タテカンについて学生と話し合うべきだという議論があったそうです.山極総長はこのような意見をふまえ京都大学の学生,教職員との対話にもとづき,創造的にこの問題を解決するよう努力して欲しいです.」(阪上雅昭)

「京都には長年生徒を修学旅行に引率して来ました。班別行動のチェックポイントのひとつに京都大学を指定し、見学させています。憧れの大学の立て看は彼らの記念写真にもよく登場します。それらの写真からは彼らの興奮と喜びが伝わります。きっと自由な学問の場であると同時に京都の文化と認識していることでしょう。古都の風情を保ちつつ文化的な香りも漂わせる京都大学の立て看には、知性的啓発力があると感じます。独立した学問の府である大学当局が警察紛いの強制撤去とは、京都大学の権威の失墜にもなり多くの良識ある人々を失望させるでしょう。権力に近い官僚を輩出する東大とは一線を画し、毅然とした知の最高峰であってほしいと願わずにはいられません。とうか強制撤去を思い止まっていただきたい。」(佐藤江都子)

「公開対話の場は必要だと思います。」(佐藤大介)

「対話が大切だと思います。何でも統一すればいいものでもありません。京大には京大の文化がありますし,それを一律に否定する,というのはやり方が悪いと思います。ぜひ検討していただきたいです。」(鮫島輝美)

「百万遍あたり通るといつも見えていた立て看のある景色が大好きです。若い人たちの賑やかな声が聞こえてくるような、あの風景こそ京都に必要なのではないでしょうかねぇ!」(杉本圭子)

「失われたものの大きさを後になって思い知る愚をおかしてはなりません。京大の歴史に汚点と悔悟を残さないよう、今ならまだ、引き返せます!」(杉山英夫)

「タテカンについては色々な意見があると思います。私はタテカンを立てたことはありません。タテカンが掲げるメッセージの中には賛同できないものもあります。しかし、今回の大学の方針には納得できないことも多く、問題を感じているので署名しました。タテカンのメッセージに賛同できないという方も多いと思います。ですが、だとしても一方的にタテカンを立てる場を規制するのは仁義に反しているように感じます。」(杉谷和哉)

「近隣住民として特に目障りな物でも無く、風物詩的存在と感じます。若い人たちの自己表現の貴重な場として、目くじらを立てるほどの事でも無いと思います。それに、創意工夫をして立て看を制作する事は、若い人たちの貴重な経験になると思います。むしろ公開投票でベスト10、ワースト10を公表するぐらいのおおらかさが必要じゃ無いでしょうか。」(辻村哲夫)

「山極君も自由な主張と行動の精神を享受してきたはずだ。自分の大学を市役所くらいから守れずして、なんで国に抗せるというのか。せめて同等の効果を得られるスペースを創設せよ。」(中川泉)

「立て看は、景観を邪魔するのではなく、左京区の景観をつくってきたものだと思います。それをおいても、対話がないというのはひじょうに悲しい。学問は、それがふだんのあり方に反映されていないのなら、考え尽くされていないということだと考えます。声明に同意いたします。」(中筋朋)

「当局が公開対話に応じることを強く望みます。また学生ひとりひとりが、関係者だけの問題ではなく自身の問題として積極的に議論し参与していける場を設けていけたらと、一学生として考えています。」(西澤園子)

「まず京都市条例が日本国憲法違反の疑い濃厚です。さらに京都大学法人は京都市条例を解釈によっていっそう表現の自由を狭めています。さらに京都大学法人はこの解釈についても、大学にとって何が望ましいかも、大学構成員と何ら対話をする意思を見せません。学校教育法改正によって大学法人の法的決定権限は学長だけが持つものとなりました。現在関連する権限は担当副学長に委任されていると思います。従って彼の決定が大学の決定になるということが確かに合法だと思います。「これは決定されたことだから」という発言の根拠はここにあると思います。しかしこれは大学にとってふさわしい意思決定の仕方だとは思えません。」(西牟田祐二)

「卒業生です。これは京大だけの問題ではなく、京都という街が、ひいては日本という国が、その中にあるそれぞれの地域やスポットの多様性を保ちながら生きていけるか、行政が定める特定の色に塗りつぶされてしまうかという問題だと思います。」(西垣順子)

「公共空間とは本来、社会の成員が属する社会にたいし広く情報を共有するための空間です。その権利を剥奪することは、京都大学が京都大学として公共性を持つひとつの社会であることを放棄し、細分化された小グループのなかでしかアクセスできない・アクセスの可能性さえ認知できない情報からなる社会と自認することを意味します。」(信友建志)

「「Defense d’interdire. Le 10 mai 1968.」(禁ずることを禁ず。1968年5月10日)

監獄化する大学からパリ5月革命を望む。」(福家崇洋)

「サイゼリアとダイコクドラッグのある百万遍交差点。景観条例で立て看板は規制。「景観」って何かね?と思います。町の情緒を簡単に規制しないでほしい。」(藤谷祐太)

「タテカンそのものにとりわけ強い魅力を感じるわけではありませんが、強権的に表現の自由を奪うことに反対して署名します。ドイツのルター派の牧師マルティン・ニーメラーの詩を引用します(Wikipediaより)。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」(舟木徹男)

「強制撤去に踏み切るまでの意思決定の在り方や本件合意プロセスについて、川添理事のやり方が後世に誇りうるものだったかどうか、第三者による調査機関を立ち上げて再度検証してほしい。」(福島直樹)

「京都大学学内の管理強化やその他の話題をめぐる、大学当局対学生、教職員、市民の争いごとは過去に何度も繰り返されてきたものです。ならばなぜ今、これほどまでに壊滅的な管理強化が実現されようとしているのか。多くの人がそれに反対する力を失ったからでしょうか? それは違うと思います。そもそも過去の議論を見ても、学生、市民が自らの力だけで守り抜いてきた戦利品では無かったのだと私は認識しています。かつては大学当局の中にも聞く耳を持ったまともな大人がいて、そういう人との間で(時には怒号も飛び交う激しい議論だったかもしれませんが)話し合いを重ねていく中で、立場上は敵であっても不思議な信頼関係が構築されていく。そういうことが昔(といってもたった4年前くらいまで)はできていたことが、吉田寮に住み過去の話を聞くたびに容易にわかってくるのです。これまでの議論の歴史はある種プロレス的なもので、話のわかる大人が、石頭の偉い奴を納得させるためのポーズとして喧嘩してるふりをしていた。そういう側面が多分にあったと思ってます。もちろんそれは官僚がやるような仄暗い忖度の世界とは全く違います。あくまで本気の理屈を戦わせていましたし、私利私欲を通すための甘い理屈などは通らない、真っ直ぐな緊張感がそこにはありました。あちらが戦車に乗り込んでいても、こちらは武器を持っていないから、戦車を降りて素手で殴り合ってくれる人たちが確かにいました。
 こうした過去の話を聞き、僕は一度も経験したことのない本気の議論の場を思うたびに、いまの大人は一体どうしてしまったのかと全くもって理解が及びません。設置して大学に回収されてしまった立て看板を返してもらうためには、2度と設置しないことを約束させる誓約書に署名しなければならなくなったそうです。僕はもうこんなところで何を言っても何も変わらないのだと絶望しています。僕の人生にとって一番いいのは、不法占有などというレッテルを貼られる前に吉田寮をさっさと立ち去り、どうせクソみたいな場所にいるなら学費を払うより給料をもらう方がマシですから、さっさと大学をできたら卒業、無理なら退学して会社に勤めることでしょう。でも、「さようなら! もう2度とくるものか!」なんてバッサリ言い切ってしまえるほど、心残りを消し去ってしまうことはできなさそうです。これからどうすればいいのか途方にくれるばかりです。」(松村主承)

「変わっていく京大のことを、外から歯がゆく思っています。激動の時代、変わらないでいることが無理でも、少しでも良い方向に向かうように、皆さまを応援しています。」(松田舞)

「「良い景観」、「残すべき景観」とは、我々の思い出に少なからずプラスのもの(もしくは何か必要なもの)を遺すものだと思います。そのような景観は、いつしか我々の心象風景となり、ある種ノスタルジーな気分を興してくれます。翻って私にとって、京都大学の立て看板は、大学入学当初の、これからの生活に思いを馳せわくわくしていた気持ちを思い起こさせてくれるもので、まさに「良い景観」となっています。京都大学には、10年後20年後私が本学を訪れた時に、私の青春を思い起こさせてくれる「景観」を失なわないで欲しいと、切に願います。」
(宮薗央光)

「学生の立て看で,今まで誰かに具体的な迷惑を掛けたことはないはずです。百万遍周辺でも,商業的な看板等は歩道に置かれています。とにかく思想統制的な匂いがかなりします。」(漁野亨)

「『立て看』規制は、大学法人化の最終章の幕を揚げられたと思います。学生が考え、疑問を持ち、発言し発信する事を全面的弾圧する正しく民主主義の破壊です。『自由』を旗に掲げている先ずは、京大。ここで踏ん張らないと全国にドミノ倒し。もぎ取られた民主主義を取り返しにゆきましょう。」(山下紀志子)

「創造すること・創造してしまうこと、を抑圧してはならない、とまずはおもう。

<京大はジャングル>ではなかったのか?
立て看板を<伐採>してしまっていいのだろうか?

――あんまり愉快ではない、とおもう。

自由の学風、の意味を、みんなで考えたいです。」(柚江夏弥)

「長い目で見れば、本学に有益なことを、短期的な視点により損得勘定をしている。生き残りが厳しい時にこそ、長いスパンでの視野による検討が必要と、強く確信している。何の話し合いもなく、撤去するのは、「大学」で働く者として恥ずかし行為だと思います。撤去後、再度学生により立てられた立て看板の内容のセンスのあること。「この知性と感性の豊かさ」を京大の誇りにしないで何を誇りにするのでしょうか。この豊かさを表現する場として立て看板は存在するのだと思います。少なくとも京大で働く者は、職責に於いてこれを保護して行く立場であれねばと思います。」(匿名)

「京大総長、という、総長その人と思い浮かべると、「抗議」という言葉が馴染みません。困っておられるだろうなと思うと、なおさら、つらいです。その意味でも、何とも煮え切らない、「抗議」です。」(匿名)

「立て看撤去を擁護・推進する立場からの「景観を損なっているのに京大だけ特別扱いはオカシイ」という意見がありますが、個人的偏見や歪んだ鬱憤晴らしを「多数」「平均」に紛れ込ませて普遍化しようとする卑劣・怯懦をそこに感じます。対話や討論を通じた止揚こそが「立て看文化」自体の本質であると同時に、それを潰そうとする「意見」が対話や討論に正面から出てこない状況(要するに卑怯)を明確にするところからも反撃の可能性があると思います。」(匿名)

「有志の会とは政治信条を異にしますが、タテカン規制に反対する点では共闘します。」(匿名)

「立て看撤去は反対ですが、この活動が、周りを省みずに筋の通らない好き勝手な主張を行う同学会と一線を引いたものであって欲しいという思いがあります。」(匿名)

「受験生の頃、入試会場の京都大学に行くとそこにはずらっと並ぶ立て看板の行列が広がっていました。そしてその光景を見て、絶対にこの大学に行きたいと心の底から思ったのを今でも覚えています。そんな思い入れのある立て看板がなくなってしまうのは寂しいことです。京都大学の名物である立て看板をどうか無くさないでいただきたいと思います。」(匿名)

「朝7:00に職員さんが看板を撤去する様子を見かけました。はやく元どおりになってお互い無駄な労力をかけなくて済むようにしたいですね。」(匿名)

「「景観」という、意味の曖昧な言葉の解釈も無しに、立て看板を景観の破壊とみなす京都府には違和感を覚える。」(匿名)

「「京大の風物詩」とも言われて来た立て看板は、長年大学は黙認し続けていた事実がある。それにもかかわらず、学生や周辺住民との対話もなしに、府条例を鵜呑みにして立て看板の撤去作業を一方的に大学は進めた。ポータルサイトやメーリスを活用して京大の全ての学生に大学の言い分を一方的に発信し、反対している学生や市民の声を聞かない大学の態度や手段にも違和感を覚える。」(匿名)

「近隣住民です。学生、教員、職員や近隣住民への説明も話し合いも行うことなく、立て看板の撤去に関して一方的に決定しようとする当局の態度は不誠実なものです。大学としての理念を謳う以上、それに即した「誠実」な対応を行うことを求めます。鹿児島在住です。近所じゃなくてすみません。恥ずかしながら、今回の騒動によってタテカンのことを知りました。こんな芸術があるなんて知らなかったので、今度京都に行ったときは必ずタテカンを見に行きたいと思っています。それまでぜひなくさないでほしいです。よろしくお願いいたします。」(匿名)

「京都大学卒業生です。時期ごとに様子を変え、生活に溶け込むひとつの風物詩としての立て看板は、あまり意識したことはありませんが、なくなったのを見ると寂しさを感じました。」(匿名)

「最近、京大に入る各門に「教育研究環境の阻害を防止するため、本学関係者以外の立ち入りを禁止します。」というボードが立てられていてびっくりしました。市民が自由に散歩できたり、通り抜けできていた京大の構内に入れなくなるなんて、いつのまにこんなに閉鎖された京大になったのでしょう。」(匿名)

「京都大学がこれまで世界をリードする研究を行えたのは、既存の概念に捉われない独自の発想を許容する自由の学風という地盤が学生に与えられていたからである。足並みを揃えることが暗に美徳とされる日本社会において、これは他に類を見ない特色であろう。自由とは、自ら考える力、行動を起こす力であり、学生生活の中で培われ、研究、社会、いかなる場面においても京都大学の卒業生が発揮する力である。立て看板に限らず、学生の行動を盲目的に規制することは、京都大学の自由の学風を損ね、創造性、独自性、自発性に満ちた京都大学の学生の排出を停滞させる恐れのあるものであると考える。」(匿名)