石井 美保(人文科学研究所教員)
ふつうの人びとの、かすかな声に耳を傾けること。
人びとの日々の暮らし、喜び、悲しみ、生死とともにあって、それらを分かち合うこと。
さまざまな差異や分断を超えて、私たちには分かち合えるものがあるということを伝えていくこと。
人類学者としての仕事を通して、ときに想像を絶するような苦境や困窮のなかにありながらも、生きることを否定せず、自分にとってのより良い生を模索する人びとの姿と、その力を目の当たりにしてきました。
政治権力によって「ふつうの暮らし」が危機に晒されているいま、そうした無数の人びとの一員として、声をあげつづけなくてはと切実に感じています。
権力の側が期待するのは、民衆の分断と追従と無関心。私たちにあるものは、ひとりひとりの声と連帯、決して諦めない気持ちです。
新しい社会運動を、一緒につくっていきましょう。
岡 真理(総合人間学部教員)
イスラエル軍侵攻下のベツレヘム、パレスチナ人青年アウニーは言った――ぼくたちは自由と平和を求めて闘っているけれど、生まれたときから占領下で、暴力しか知らない。きみは日本から来たんだろ。日本は自由なんだろ?平和なんだろ?じゃあ、教えてくれよ、自由ってどんなものか、平和ってどんなものか・・・。
私たちは本当に知っているのだろうか・・・自由とは何か、平和とは何か。もし、知っていたのなら、教育基本法がむざむざと改訂されることはなかっただろう。もし、知っていたのなら、沖縄が今なお基地の存在で苦しむことはなかっただろう。アパルトヘイト体制下の南アフリカで「名誉白人」などと呼ばれはしなかっただろう。ガザを封鎖し、恥知らずの占領を半世紀近くも続けるイスラエルと、包括的パートナーシップ構築のための共同宣言などありえなかっただろう。
アウニーよ、やがて、私たちもまた、自由とは何か、平和とは何かを真に知ることになるだろう。大きな対価を支払って。そして、自由も、平和も、その対価に値するものであることを知るだろう。そのとき私たちは、パレスチナに、南アフリカに、沖縄に、朝鮮に、一歩、近づくのだ。
岡田 直紀(地球環境学堂 / 農学研究科教員)
あれはもう30年以上も前のこと.世の中には絶対的な真理などあるはずがないと口にしたとき,10歳以上も年の離れた友人が即座に「人間の命は尊い,これは絶対的な真理だ」と返した.「カゲキハ」というレッテルを貼られ,四六時中,日常生活を監視され,職に就くこともできない数年間を過ごしたその友人は,「ゴッつう辛かったわ」と言いながら,しかし決して闘うことを止めず希望を失うことがなかった.頭でっかちの学生は一言も返す言葉が無かった.友人の言葉は今にいたるまで学生の心の中に刻まれている.
小難しい理屈などない.戦争になれば命が失われる.だから戦争に反対する.戦争につながる法制にも反対する.戦争を賛美する風潮に異議を申し立てる.人の命に鈍感な人間を大量生産しかねない大学「改革」に抵抗する.
Mさん,もう長い間お目にかかっていません.まだ京都においでですか.もしおいでなら,私たちの隊列に加わって下さい.
小関 隆(人文科学研究所教員)
ものを書くのに行き詰まった時、私はしばしば次のことばで自分を慰めます。What is written without effort is in general read without pleasure. サムエル・ジョンソンのこのことば、法や政策にも適用可能でしょう。「スピード感」「リーダーシップ」「決められる」「ぶれない」等々を誉めそやす風潮の中、政治の場でも学問の場でも、クーデターと思しき手法が横行していることに深い懸念を抱きます。
駒込 武(教育学部教員)
「役に立つ」研究とはなんだろう?
安保法案を「違憲」とする憲法学者たちは、今日の政府からすれば「役に立たない」研究をしているということになるのだろう。
やはり今日の政府からすれば、原発の再稼働を生存権を否定するものとして批判する研究も「役に立たない」から消えてほしいのだろうし、教育現場における君が代斉唱を「良心の自由」という観点から批判する研究は有害無益ということなのだろう。
下村博文文部科学大臣は、大学における人文・社会系を大幅に縮小し、「国益」にかなう自然科学系研究を拡大するという意向を表明した。それは、人文・社会系にとってはもちろん、自然科学系の研究にとっても災厄だ。政府から見て「役に立つ」研究にはお金も人も潤沢に供給されるが、「役に立たない」研究は干乾しにする政策は、研究活動全般を沈滞させずにはおかないからだ。研究とは、お金を入れたら、自分の選択した飲み物がゴトンと出てくる自動販売機のようなものではない。そこには、生身の人間としての研究者の課題意識があり、これを研究という手続きに載せるための創意があり、思いもがけない発見がある。その結果が、政府から見て「役に立つ」ものになるとはかぎらない。
だから、「役に立つ」研究という言葉にだまされないようにしたい。「役に立つ」とはどういうことか、誰のために、どのように「役に立つ」のか。そのことをしっかり見極める回路を、自分自身の研究のなかに組み込ませたい。そして、市民社会における自由が縮小し、破壊されていく状況に対して、自分に何ができるのかということを改めて問い直したい。
小山 哲(文学研究科教員)
かつてカントは、政治家が「並はずれたうぬぼれをもって政治学者を机上の空論家と蔑視し」、学者がなにを言おうと「世間に通じた政治家はそれを気にする必要はないと考えている」と、皮肉をこめて指摘しました。そのうえで、そのような政治家の態度を逆手にとって、それならば学者がどんなに思い切った意見を説いても国家に対する危険をかぎとったりしてはならないはずだ、と釘を刺し、あの『永遠平和のために』を書いたのです。日本国憲法第9条は、このカントの平和論の延長線上に位置しています。いままた、日本の政権を握る政治家たちは、研究者としてのわたしたちを「机上の空論家と蔑視」し、学問の場である大学のかたちを歪め、幾世代もの人びとの痛切な経験と思索の結晶である憲法の規定をなきものにしようとしています。このような現状に危機感をいだく者が集まって、ここに連帯の「ひろば」をつくりました。わたしたちは、現政権が推し進める危険な安全保障政策と防衛政策、学問と文化をないがしろにする学術政策と教育政策に反対します。そして、かつてカントがそうしたように、この状況を逆手にとり、この「ひろば」で自由と平和を確かなものとして創造するための思索と議論を重ね、ここから発信していきたいと考えています。
藤原 辰史(人文科学研究所教員)
いまの政権与党は、私たちの話し合いよりも、沈黙と服従を好み、私たちの生命の危険よりも、アメリカへの追随を大切にし、文化の創出よりも、文化の商品化にお金を投じます。安倍政権が私たちに押し付けようとしている現実は、かつて「ファシズム」と呼ばれたあの現実と似通っています。ファシズムがあれほど徹底して人間破壊を推し進められたのは、ファシズムを支持する国民がいたからです。私たちには、私たちの生を、自分で決める自由があります。ファシズムが私たちの生きる唯一の現実となる前に、身近な場所から、言葉を使って連帯を広げていきたいと思います。
松田 素二(文学研究科教員)
ひとの歴史は、小さな日常の場面と状況の積み重ねですが、おうおうにして、巨大な意思と欲望の奔流に押し流されます。その流れにのって暮らしていると、ときには押し流れていることさえ気づかないこともあります。大学で学ぶことに意味があるとしたら、こうした流れを根源的にみつめ思考する力を身につけ、流れに棹さす実践力を鍛えることでしょう。また大学で教えることに意味があるとしたら、この流れの源流をたどって世界の別のありようを提示し、その世界の実現のための行動を起こすことなのだと思います。
歴史と今を考える会(学生団体)
何かが変だ
何かが変だ
私たち学生も感じていますこのままではいけない
このままではいけない
私たち学生にも分かります今、私たちが当然のごとく享受している「自由」と「平和」は
実は脆いものなのです
私たちはそれを知りつつありますそうしてそれらは貴重なものなのです
失って初めてその価値に気づく
そんな愚を私たちは犯したくない 犯してはならない私たちは考え始めました
過去に何があったのだろう?
今、何が起こっているのだろう?
私たちには何が出来るのだろう?「自由」と「平和」
私たちはその真価を求め続けていくのです
(以上、五十音順)