○前回レポートにおける訂正点
トルーマン政権期にマッカーシー上院議員の所属政党が民主党となっておりましたが、正しくは共和党になります。
【会の概要】
9月27日(日)の13時から15時、京都大学人文研講義室にて「歴史と今を考える会 第三回勉強会」が行われました。テーマは「マッカーシズムについて2」と題し、前回提示された疑問点の解消を主として、議論が行われました。
テキスト:マッカーシズム
R・H・ロービア 著 宮地健次郎 訳 岩波書店
【勉強会内容】
◎前回の疑問点に対しての説明
〈Q1 当時のアメリカの政党内の党議拘束力〉
A マッカーシズムが蔓延した時期には、党議拘束力はほとんどなかった。
- 民主党所属議員の統制を行うものとして、議員総会・政策委員会(上院)・指導委員会(下院)が挙げられるが、その強制力は弱い。
「もちろん、民主党上下両議員総会は党政策の形成に際して大きな意思を働かしているが、個々の議員の政治活動を拘束することがなく、議員は議会での立法に関する票決に際し独自の判断により投票する。このような傾向はアメリカ合衆国議会に特有な現象であるが、一体、いかなる理由に因るのだろうか。それは結局のところ、国民が政党よりもむしろ有能な上院議員および下院議員を大幅に信頼するあまり、かれらに高き公職と権力を代行させることにやぶさかでないからであろう」(『アメリカ民主党』頁67)
→ 実例としては、F・ローズヴェベルト、トルーマン政権期に下院規則委員を牛耳った親共和党議員のE・コックス、H・W・スミスが民主党の希望した法案を握りつぶしていたことなどが挙げられる。
⇨ よって、政党の責任=個人の責任には結びつかないといえる。
〈Q2 民主党の支持母体・ロビイストについて〉
- 初期民主党(反連邦党)の支持母体としては、州権尊重主義を以て南部各州、ジェファーソンの唱えた「平民主義」を以て農民が挙げられる。
- しかし、南北戦争以降、急激に発達していった都市化・工業化の影響を受け、農村のみの支持では立ち行かなくなったことから、「政治と産業の癒着を肯定する」共和党に不満を持つ労働者層と流入した多数の移民を支持基盤に取り入れようとする。=福音主義的ファンダメンタリズムの高まりを背景に、「金権主義の浄化」や「銀の自由鋳造」を唱えたW・ブライアンを代表とする「革新主義」を以てして、農民・労働者・移民の幅広い支持を得る。
- ローズヴェルトのニューディール政策を以て革新主義は一応の完成を見るが、復興が進むにつれて資本家からは政府の介入に関して不満が、左翼からは「復興」ではなく「改革」を求める声が起こり、それにより、南部派と進歩派の分裂が問題となる。
- WWⅡのため、一時的な国内統合が果たされるが、48年に南部民主党は「州権党」を設立し共和党と協力、進歩派は対ソ協調政策を唱えて「進歩党」を結党、民主党は分裂した。
⇨ これにより、マッカーシズム期の民主党は反共・反保守の支持もあったと言える。
〈Q3 国務省の所属でないラティモアが最初に弾劾された理由〉
- ラティモアは幼少期を中国で過ごし、スイス・英国で教育をうけた後、再び中国で貿易商社と新聞社に勤務、29年から中国研究を行っていた。33年からIPR(太平洋問題調査会)に参加、41年からは蒋介石の私的顧問となる。44年にウォレス使節団に同行し、45年にはボーレー調査団(ともに中国に対する日本の戦後賠償額を決定するための機関)に参加した。(なおこの際、「賠償はソ連・国民党左派に利するものでなく、関係諸国内部の右派に向けられるべきである」という使節団の結論に、ラティモアは賛同しなかった。)
⇨ 上記のことから、ラティモアは中国との関係が深い人物であったことが分かる。
またWWⅡ後、アメリカと中国国民党とは協調関係にあり、そのため、49年の共産党による中華人民共和国設立宣言がなされた際には、アメリカでは「中国を失った」という言説が生まれた。 - この時、ラティモアはそのような主張には否定的な立場を取っており、後に「ラティモアがアメリカに中国を失わせた」と非難されるようになる。
しかし一方で、ラティモアは国務省に対して影響力をほとんど持たず、公的な行動記録や有力な後援組織などがなかった。= 国務省内の重要人物ではない。① このことが裏目に出て、マッカーシーの「赤狩り」時に利用されたと考えられる。
捕捉として、アメリカ国民の思想観念を提示しておく。
- 〈宗教面〉……根本には独立自営的人間像を基礎とした「アメリカ的福音主義」が伝統となっている。また、階級制共同体的・制度建設的・自己責任的なピューリタン倫理が1960年まで国民内部で主流をなしていたとする(ポルツェル曰)。
- 〈社会進化論〉……「生存競争における適者生存の法則が貫かれる自由放任の社会が進歩を遂げる」(『世紀転換期のアメリカ』頁?)というもので、これは伝統的な農村的価値観――機会の均等、勤勉、節約、献身、能率尊重、小さな政府など――に合致するものである。→ この理論は「大勢においては一九世紀の進歩の観念への信仰を強め ~ アメリカでは進歩への信仰が二十世紀に入っても1960年代までは続いたのが事実である」(同頁20~21)
→ 以上の思想観念に「フロンティア精神」を踏まえて考えると、アメリカ国民は「資本主義的思考(自助努力・自由放任)」を伝統=自分たちのアイデンティティとして持っており、その考え方は少なくとも1960年までは一般的・普遍的であったと言える。
⇨ この考え方から、共産主義はアメリカの国民性と相容れるものではない。=選挙戦の争点・支持の拡大として「反共」を唱えることは一番効果のあることであろう。
◎その他関連して出た意見について
- 反共の矛先が知識人に向いている点について
→ ニューディール期、計画経済的な施策を行ったため、知識人を含む多くの人員が政府内に新規参入してきた。(左側の主張を持つ者の参入に関していえば、殊に後期ニューディールにおいて、その傾向は顕著だった)
⇨ しかし、冷戦が始まって、左側の人間を権力の中心に置いておけなくなった。
- アメリカの伝統性から見る「知性」と「知恵」の対比→ 欧米における「知性」(intellect)には、反省・自己批判の意味合いが含まれ、その厳格性から周囲から孤立する傾向にある。その点では、アメリカ国内の農民は反知性的であった。
⇨ 独立自営のためには知性よりも知恵が必要であり、そのため、「先祖の知恵」の蓄積としての伝統性を尊重する傾向が強くなる。= これは、何もないところから独立自営で成り立った者としての「叩き上げ」のイメージ、及び「男性的」という言葉の持つイメージと合致する考えであった。その対極として、彼らは「知性」を扱う「知識人」を挙げたのだろう。
→ このことは「役に立たない(実利に結びつかない)知識人」乃至「労働運動の扇動家など、イデオローグになる連中」といった、知識人に対しての反発があったことからも考えられる。
- 「マッカーシズムがある時期までまかり通るのはなぜか?」という疑問について、前回のレポートではジャーナリズムの影響も挙げられていた。
→ この問題の解決法としては、ジャーナリズムが自立性をもって嘘に対して糾弾することが挙げられる。(例・調査報道など)
……この点において、『マッカーシズム』頁218の註釈で「新聞は情報を与えるもの」と書かれている。→ 真実は読者が調査・判断するべきとする。
⇨ 本当にそれでいいのか?(これを嘘と否定するためには、メディア自身が否定をすること/権威ある者が否定すること のいずれかが必要となる。)
- 1950年ごろのポーランドについて
→ スターリニズムの時代で、反共主義者の追放が行われていた。(ポスターを用いたプロパガンダ等)⇨ 西でも東でも反体制狩りが行われていた。
【参考文献】
- R・H・ロービア著 宮地健次郎訳『マッカーシズム』 岩波書店 1984
- C.A.ビアード著 斉藤真・有賀貞訳編『アメリカ政党史』 東京大学出版会 1968
- 村川一郎著 『アメリカ民主党』 教育社 1978
- 阿部斉 [ほか] 編 『世紀転換期のアメリカ 伝統と革新』 東京大学出版会 1982
- 長尾隆一著 『アメリカ知識人と極東』 東京大学出版 1985
- ラティモア著 磯野富士子編・訳 『中国と私』 みすず書房 1992
- 藤本一美著 『米国議会と大統領選挙』 同文舘出版 1998
☝アシスタントよりひと言
第3回の勉強会では、前回にひき続いて、マッカーシズムをとりあげました。
アシスタントはこの分野の専門家ではないので、細かい事実関係や現在の研究状況については十分な知見を持ちあわせておりません。
門外漢なりに、マッカーシズムという現象を歴史のなかに位置づける文脈としてどのようなものが考えられるか、思いつくままに挙げてみます。
① 20世紀アメリカ政治史
② 20世紀アメリカのインテレクチュアル・ヒストリー
③ 植民地時代から現代までのアメリカ精神史
④ 冷戦期のグローバル・ヒストリー
⑤ 反知性主義の比較史もっと他にもありうるでしょうが、とりあえずこのなかで考えてみると、今回の勉強会でとりあげられたのは主として①の文脈で、討論の過程で②、③、④ の文脈にも少し踏みこんでみた、ということになります。
ちなみに、R. ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』は、③ の文脈で書かれた本です。
アメリカの反知性主義
リチャード・ホーフスタッター 田村 哲夫
Anti-Intellectualism in American Life
Richard Hofstadter②の文脈については、もう少しいろいろな角度から考えてみることができるかもしれません。たとえば、
- オーウェン・ラティモアが参加した太平洋問題調査会(IPR)は、1920年代後半から戦後の占領統治期にかけての日米関係に深くかかわっています。アシスタントが昔読んだのは、
油井大三郎『未完の占領改革――アメリカ知識人と捨てられた日本民主化構想』(東京大学出版会、 1989年)ですが、IPR問題をとおしてアメリカの知識人と日本の「戦後改革」との関係についても議論できるかもしれません。これは②を④の文脈において考えることでもあります。
なお、④については、マッカーシズムと同時期の「東側」ではスターリニズムのもとでの思想・言論の統制や「知的異端」の排除が行われていたので、冷戦の初期段階では「鉄のカーテン」の両側でパラレルな現象が進行していたともいえるでしょう。- アメリカのアイデンティティや、「資本主義的思考」と「反共」の系譜については、時代を超越する「伝統」として固定的にとらえないほうがよいでしょう。アメリカ社会はさまざまな文化的背景をもった人びとからなる多元的な社会ですし、アイデンティティも時代によって変化するものです。アメリカのなかから生まれた知的潮流としてプラグマティズムがありますが、日常的な思考や試行錯誤の実践をとおして社会の抱える問題点を批判的に認識し変革に結びつけていく運動もそこから派生してきました。鶴見俊輔『アメリカ哲学』(講談社学術文庫、1986年)や魚津郁夫『プラグマティズムの思想』(ちくま学芸文庫、2006年)を読んでみるとよいかもしれません。
次回の勉強会は、⑤の文脈に挑戦します。どのような議論になるか、楽しみです。