【目次】
- はじめに―問題を考える手がかりについて
- 1.憲法政治の現状と憲法秩序のヒエラルヒー
- 2.立憲主義と民主主義の相克
- 3.憲法の体系的理解と自民党改憲の方向性
- 4.自民党改憲案と日本国憲法の前文
- 5.自民党改憲案がめざす国家と国民のあり方
- 6.自民党改憲案がめざす安全保障
- 7.基本的人権とその制限の根拠をめぐって
- 8.緊急事態条項をめぐって
- おわりに―残された幾つかの論点
8.緊急事態条項をめぐって
さて、憲法改正が発議できる条件が整った場合、どの条項から着手されることになるのでしょうか? 96条が改正されれば、一挙に改正のハードルが下がることになりますが、抵抗が大きかった記憶が鮮明なだけに、直ぐには持ち出しにくいでしょう。
現行憲法
第96条
1 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
そこで東日本大震災や熊本・大分大震災などを契機に、緊急事態条項であれば国民の合意を得やすいのではないか、これによって「お試し改憲」を行って抵抗感をなくし、「改憲ぐせ」をつけたら良いといった工程表も想定されているようです。
自民党改憲案では、「第九章 緊急事態」として、98条と99条で規定されています。その認定要件は、内閣総理大臣が「我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるところにより、閣議にかけて」宣言を発するとされています。ここでも「その他の法律で定める」として、いかなる事態が含まれることになるのか曖昧なところがありますが、現時点では「地震等の大規模な自然災害」が前面に押し立てることで国民の合意を得ることがめざされているようです。しかし、この条項の眼目は、「外部からの武力攻撃」に対処することにあるはずです。そのことは、この緊急事態条項が改正案の第二章の安全保障と表裏一体のものであることを意味しています。より率直にいえば、国防軍による任務遂行と緊急事態とは、同時に発動される相互に不可欠な条項であるということです。そして、「外部からの武力攻撃」に対処する緊急事態とは、戒厳令を意味するということです。
自民党改憲草案
第98条(緊急事態の宣言)
1 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。
第99条(緊急事態の宣言の効果)
1 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
何よりも注意して戴きたいのは、緊急事態条項で保護されるべき法益として設定されているのは、基本的に「国家」緊急事態条項であって「国民」保護条項ではないということです。いや、何度も確認しておきたいのですが、緊急事態と内閣総理大臣が宣言した場合には、三権分立と人権保障と地方自治が停止されるということです。緊急事態というものの定義は、平時の機構ではコントロールできなくなったときに発動するものですから、憲法停止状態となるということです。
その点を認識して戴いて、改憲案の条項を見て戴くと、非常に分かりやすい特徴があることにお気づきになると思います。98条の1項から3項まで「法律の定めるところにより」とあります。99条では1項から4項まで、すべての条項で「法律の定めるところにより」発動することになっています。これも逆に言えば、人権の制限や権利行為の停止、地方自治の制限や衆議院議員の任期変更などの重要事項が、すべて法律の定めによって決めることになるということです。法律によって、憲法で保障されている基本的人権や地方自治などが変更できるのです。
このような緊急勅令や戒厳令などの条項は、大日本帝国憲法にも、緊急勅令の8条、戒厳令の14条、そして非常大権の31条と緊急財政処分の70条などで規定されていました。そのため日本国憲法を審議する際にも、緊急勅令などの緊急事態条項などの取り扱いが問題とされました。そして、この条項が国家権力乱用の口実として利用されるとの認識が共有されて、日本国憲法では採用しないことになったのです。緊急勅令とは何かといえば、改憲案の99条に規定されているように内閣総理大臣が立法府の権限である立法権を奪って「法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」ということであり、緊急事態が宣言されると内閣総理大臣にすべての権力が一元的に集中することになります。ただし、大日本帝国憲法における緊急勅令については、議会が承諾しなかった場合は将来に向かって効力を失うと規定されていました。
ところが、自民党の改憲案には、「事後に国会の承認を得なければならない」とは規定されていますが、大日本帝国憲法にもあったような承認を得られなかった場合の処理が定められていません。そのため、いったん政令を制定したら、それをどのように廃案にするのかが分からないようになっています。財政処分についても同じです。また、緊急事態宣言期間についても制限がありません。「百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない」とは書いてありますが、100日を延々伸ばすことも可能となっています。実際に施行するには、はなはだ欠陥の多い条項なのです。
それから、改憲案で創設された緊急事態条項が、なぜ「法律の定めるところにより」と規定しているのかという問題ですが、実は緊急事態で起こるような事態を想定した法令はほとんど整備されているからなのです。ですから、一応、ここにリストアップしてみましたが、敢えて「法律の定めるところにより」として新たに緊急事態条項そのものを創設する必要などないことがわかります。
それではなぜ、東日本大震災や熊本・大分大震災のときに、対応できなかったかと言えば、地方自治体に何ができ、何ができないないかについての権限が事前に全てを把握できていなかったからです。また、地震後の大津波の発生や原子力発電所の爆発などが「想定外」のことであったからです。災害対策の専門家の方々が指摘されることは、「事前に準備していなければ対応できない」ということです。実際、大規模自然災害が東北や九州で起きた時に、内閣総理大臣が実態もわからないままに、被災地の各市町村に命令や指示を出すという緊急事態条項がうまく機能するでしょうか? 内閣総理大臣に権限を集中し、その指令を受けて各市町村が動くようにするとすれば、被災地では中央からの指令待ちを余儀なくされますから、却って即応できなくなり、混乱が増幅するだけでしょう。ですから本当に大規模自然災害などに対応しようとするなら、緊急事態条項の創設に時間と労力を費やす前に、すでに沢山の法令が準備されている中で不備なものは何かを総点検し、それに従って住民なり地方自治体なりに周知徹底することの方が先決なのではないでしょうか?
それから、この緊急事態条項について、一番私が気になっていることは自民党改憲草案Q&Aに何が書いてあるかということです。まず、「緊急事態においても基本的人権を最大限尊重することは当然のことであります。」と記してあります。しかし、次には「国民の生命、身体および財産という大きな人権を守るために、そのため必要な範囲でより小さな人権がやむなく制限されることも有り得るものと考えます。」という制限があることになっています。この大きな人権と小さな人権の違いとは何なのでしょうか? だれが、その大きな人権と小さな人権の区別を緊急事態の中で即座に判断して、それに従わせるのでしょうか?
おそらく、推測するにここで指摘されていることは、「公益」や「公の秩序」の維持と同じく、執行権者が自分では避難することにできない病人や高齢者などの弱者や、あるいはその権利を主張できないような人の権利は、小さな権利として無視しても良いということなのではないでしょうか? あるいは財産権などの権利は大きな権利であるとして、緊急事態の中で思想・表現などの自由権は小さな権利として圧殺をしても良いということなのかもしれません。
本来、人権に大きな権利と小さな権利の区別などありようはずがありません。しかし、緊急事態であるから人権は大小区別をつけて、執行権を最優先するための根拠とするというところに緊急事態条項の真の狙いがあるのかも知れません。被災者に対応してきた各地の弁護士会が、緊急事態条項を不要かつ危険な規定だとして反対しているのも、被災地の実態を踏まえたものです。また、毎日新聞のアンケート調査では、「緊急事態条項」を巡り、東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島3県の42自治体に初動対応について聞いたところ、回答した37自治体のうち「条項が必要だと感じた」という回答は1自治体にとどまっています。対応が後手に回るのは、基盤自治体の人員削減など、地方切り捨てによる地域の対応能力の弱体化にこそ問題があるのです。
必要なことは、災害に備えてどのように準備を整えるかであって、緊急事態条項を作ったら何でもできると思ったら大間違いなのではないでしょうか? あるいは緊急事態条項さえあれば、自分の命が救われる、危難から逃れられると思うこと自体が、緊急事態条項を万能なものと想定することであり、「想定外」というあの言い方に逃げ込む最上の遁辞になってしまいかねません。要は、想定外をしらみつぶしに潰していく。それが大規模自然災害などに対する行政のあるべき姿勢であって、内閣総理大臣に権限を全て与えれば何かうまくいくと考えるのは浅はかとしか言いようがありません。